【通年連載】「シリーズ上越偉人列伝」第5回 新渡戸稲造を顧問に迎えた出版人、実業之日本社社長・増田義一<再掲載>
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初掲載:2024年5月1日
2024年新企画の新潟県上越市近現代の偉人を連載で紹介するコーナー、「シリーズ上越偉人列伝」の第5回は、上越市板倉区出身で出版社社長や衆議院副議長を務めた増田義一。
上越市ホームページなどによると、増田義一は明治2年、戸狩村(現上越市板倉区戸狩)に生まれた。弱冠13歳で新潟県糸魚川市内の小学校で代用教員となり、翌年には中等学校教員免許を取得。20歳を過ぎるころまで教員を務めたが、若くして両親を亡くし、苦学する。明治22年に教員を辞職した。
かっての希望だった新聞記者になるため、上越市にあった高田新聞社に勤めると、政治に関心をもち立憲改進党に入党。高田新聞の勤めを終え上京し、明治23年に私学の雄・東京専門学校(現早稲田大学)へ進学する。東京専門学校で大隈重信の門下生となったことから人生が大きく開けていった。
東京専門学校に在籍している間も多くの政財界の著名人と交流した。卒業後、明治26年に読売新聞社に入社し、またもや新聞記者となったが、今度は念願の全国紙。明治30年、雑誌「実業之日本」の編集権を譲り受けることになり、同時に「実業之日本社」を設立した。この「実業之日本社」の経営に増田は生涯を捧げ、同社の看板雑誌である「実業之日本」をはじめ、実業書や少年誌、婦人雑誌などを手がけ、大きな成功を収めていく。
大隈重信、渋沢栄一、岩崎弥太郎(三菱財閥創設者)ら財界の要人の寄稿は多大な力があった。さらに書店に対し委託返品制度を導入し、売れ残りの節約に貢献、発行部数は飛躍した。
また、明治35年には、アメリカ人作家の「実業の帝国」の翻訳本を出版し、ベストセラーにもなっている。明治42年には、著書「武士道」で有名な新渡戸稲造を顧問に迎えた。増田は新渡戸を口説くために、現在の文京区にあった新渡戸の自宅まで、新聞記者時代さながらの「夜討ち朝駆け」で日参したという。昭和10年ころには、2社が合併して発足した大日本印刷株式会社の初代社長に増田が就任している。
一方、政治活動では、明治36年に同じ板倉区出身で同門の東京専門学校出身の中村十作による沖縄・宮古島の人頭税廃止運動に協力し、国会請願を果たした。中村十作については、次回以降の本連載で取り上げる。
明治45年には、旧中頸城郡から衆議院議員に立候補して初当選を果たし、さらに大正年に再び衆議院議員に当選。その後、副議長や予算委員長などを歴任し、昭和21年に公職追放を受けるまで20年余りにわたって衆議院議員を務めた。
上越市出身に熱い出版ロマンを持った人物がいたことは大きい。いろいろと問題はあるにせよ、何よりも今や主流の委託販売制度を持ち込み、早稲田学閥で財界の大物と交流があったことが成功の理由かもしれない。今後も全20回の予定で、上越の偉人を月1回ペースで紹介していく。
<参考文献>
新潟県上越市ホーページ
「一代の出版人 増田義一伝」藤井茂著(実業之日本社)
(文・撮影 梅川康輝)