【今年創業400年】これはもしや東京進出の走り? 当時お江戸日本橋に店舗があった髙橋孫左衛門商店はまさに新潟県上越市の「伝統文化」だ
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初掲載:2024年5月4日
飴屋としては日本最古の店で、創業は今年でちょうど400年
新潟県上越市の髙橋孫左衛門商店はなんと飴屋としては日本最古の店で、創業は今年でちょうど400年。また昨年は、同店の看板商品・翁飴(おきなあめ)を作ってからちょうど300年だった。
創業から400年ということは、当然ながら江戸時代から続いているわけだが、江戸時代のベストセラー「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)」の著者として有名な当時のルポライター・十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)が取材で同店に滞在した話や、明治の大文豪・夏目漱石の代表作ともいえる小説「坊っちゃん」に同店の笹飴が登場する話、明治天皇が北陸巡幸で上越市高田を訪れた際に飴を購入された話、さらに昭和天皇が毎日同店の粟飴(あわあめ)を食されていた話などは、すでに幾度となくメディアで報道されている。
新潟県糸魚川市の銀山開発も
しかし、驚くなかれ、同店14代店主の髙橋孫左衛門さん(代々の世襲制である)によると、江戸時代はまさに「お江戸日本橋」の日本橋三越近くに店舗を構えていたことや、新潟県糸魚川市の銀山開発をしたことで蓮華温泉も発掘したというではないか。これはこれまであまり世間には知られていないだろう。
この記事では、知らない読者のためにも、十返舎一九などの定番情報から順に解説していく。
もとは下級武士だった初代が1624年(江戸時代の寛政年間)に飴屋を創業。1700年代に公家らが飴の専売特許のようなものを統制していたが、同店のある越後高田には、ついに入り込むことができなかったという。それだけ、同店の力が大きかったということだろう。
14代髙橋店主は「当時うちはかなりの財力があったようです。幕府の命で開発した糸魚川銀山と温泉もありましたし、日本橋にも店がありました。当時越後高田藩は石高が15万石でしたが、財政は厳しかったようです」と語る。
当時の大人気作家の十返舎一九が泊まる
そして、当時の大人気作家の十返舎一九が「諸国道中金の草鞋一六(しょこくどうちゅうきんのわらじ)」の取材で高田を訪れる。この本は小説ではなくノンフィクションで、現代でいえば旅行ガイド本のようなもの。現在の福島県会津若松から長野県善光寺までの旅行エッセイで、なかなか遠くに旅行できなかった江戸時代の民衆に受け、このシリーズは大ベストセラーになったという。
十辺舎一九は7日間高田に滞在した。「十返舎一九は三越の近くにあった版元の下絵書師だったので、おそらく日本橋のうちの店に来ていたことで、旅の折、高田の店を訪ねてくれと言ったのでしょう。取材の際にはどうやら高田の店に泊まったようです」(14代髙橋店主)。
明治の大文豪・夏目漱石の小説「坊ちゃん」の一節に出てくる
さらに、言わずと知れた明治の大文豪・夏目漱石。胃潰瘍の持病があった漱石の主治医が実は上越市高田出身の森成麒造(りんぞう)で、高田に医院を開業したことから、お土産などで漱石は髙橋孫左衛門商店の笹飴を食べたことがあった。1810年ころに発売された笹飴は、粟飴を練り上げ熊笹に挟んで二つ折りにしたもので、実際、小説「坊っちゃん」の一節に「清が越後の笹飴を笹ぐるみむしゃむしゃ食べている」というくだりがあり、これは現在でも文庫本などで読むことができる。
昭和天皇の粟飴の逸話
最後に天皇家とのつながりである。明治天皇のほか、昭和天皇の粟飴の逸話も有名な話である。昭和天皇が崩御された際、共同通信社から14代髙橋店主に1本の電話が入った。通信社の記者曰く「昭和天皇が本当にそちらの店の飴を食べていたのか聞きたい」と。14代髙橋店主は「昭和天皇は箸に巻いて粟飴を食べておられましたが、たくさん巻けた時はご機嫌が良かったと聞いています」と言った。すると、通信社の記者は「それなら間違いはない」と言い、全国各紙に昭和天皇が最後に召し上がった品が粟飴だったという記事が配信されたという。
また、秋篠宮さまが国体参加で新潟県妙高市の赤倉観光ホテルにいらした時、数多くの献上品の中で唯一お持ち帰りになられたのが、同店の粟飴だった。「秋篠宮さまはお祖父様から頂いて知っていた、とお話になられたそうです。詳しくは分かりませんが、今の天皇さまも昭和天皇からお聞きになられているかもしれませんね」(14代髙橋店主)。
いみじくも、14代髙橋店主が記者に最後に話した「うちは店を継ぐ時に改名するのがポイントです」という言葉に集約されているのだが、やはり世襲制の歌舞伎や落語と同様、すでに髙橋孫左衛門商店は「伝統文化」といっても過言ではないのである。
(文・撮影 梅川康輝)