新潟県上越市にあった「短命」福島城、地元の団体が周知活動続ける
新潟県上越市にあった城というと、越後の戦国大名・上杉謙信の居城「春日山城」と徳川幕府直轄の高田藩の「高田城」が知られているが、春日山城と高田城の間の江戸時代、1607年に完成した「福島城」という城があったことは一般的にはあまり知られていないだろう。
福島城は現在の直江津港の近く、上越市立古城小学校の敷地に存在していたのだが、2代目福島城城主の徳川家康の6男・松平忠輝が1614年に高田城を築城して移ったため、福島城はわずか7年で廃城となってしまった。そして、現在は小学校と工場となっており、昔の風景が残っていないことも認知度が低いゆえんだろう。
移転の理由については、一般的には加賀100万石の有力大名の前田氏を監視するため、北国街道に面している高田に移したという説が有力だが、一風変わった理由としては、忠輝の妻で伊達政宗の娘である五郎八姫(いろはひめ)が、福島城が海に近いため、波の音がうるさくて眠れないという説もあると一部では言われている。
また、こんな逸話もある。城作りの名人だった加藤清正は熊本城の建設の時に参考のために家臣に福島城を見学させたという言い伝えもあるのだ。そんな福島城だが、10万人が動員され、わずか3カ月の突貫工事で完成した高田城に、解体された福島城の木材が使用されたという記録も残っている。
今年3月に94歳で亡くなった福島城研究の第一人者、渡邉昭二さんは生前、「福島城は短命で、悲運の城だ」と話していた。渡邉さんは福島城を題材にした本「甦る『越後福嶋城』」を自費出版された人だ。
なお、福島城跡地では昭和42年から44年にかけて、学習院大学など複数の大学などがチームとなって発掘調査を行った結果、大きな石垣が出てきた。元古城小学校教頭で、福島城を愛する会元会員の高津要(上越市在住)さん(67歳)は「運動会のゴール前で必ず倒れる人がいたり、幼年野球の練習でもボールがイレギュラーするということがあった。中にある大きな石の氷山の一角が出ているとまことしやかに言われていた」と回想する。
実は古城小は児童数減少を理由に閉校になり、令和4年4月に上越市立直江津小に編入統合されることが決まっている。高津さんは「コロナウイルス、古城小の閉校、渡邉さんの永眠と三重苦になった。福島城を愛する会の会員も高齢化が進み、若手育成が課題となっている」と現状の課題を話す。
その一方で、高津さんは「古城小の校舎を福島城の資料室にするという案も出ている。福島城は先人が残した郷土の宝。それを後世に伝えていくのが喜びでもある。これを機会に再燃させて、観光にも繋がるようにしたい」と、希望も口にした。
短期間の寿命から「幻の城」とも呼ばれる福島城だが、福島城を愛する会が史料を基に構想したジオラマでは堀も巡らされ、石垣もあったとされている。春日山城は山城(やまじろ)、高田城は土を盛った土塁(どるい)で支えていたことを考えると、福島城は上越市の城では最も城らしい城であったとも言えそうである。