【特別寄稿】小川未明の童話における少年像についてー『花と少年』を中心として 第1回(上) 高鵬飛(中国出身、上越教育大学外国人研究者)

小川未明文学館(新潟県上越市)

小川未明(1882年~1961年)は、本名、小川健作といい、新潟県高田市(現在の上越市南部)に生まれた。日本児童文学の基礎を築いた一人で、「日本のアンデルセン」と呼ばれている。小川未明の童話は、温かい雰囲気に満ち、濃厚な郷土色と神秘的でロマンチックで叙情的な色彩を備えている。代表作には『嵐の夜』(1906年)、『薔薇と巫女』(1911年)、『赤い蝋燭と人魚』(1921年)、『時計のない村』(1921年)、『月夜と眼鏡』(1922年)、『飴チョコの天使』(1923年)、『魚と白鳥』(1924年)、『白い熊』(1926年)、『愛は不思議なもの』(1931年)など(注1)がある。

1921年に創作された『花と少年』は大変短い童話であり、プロットは非常にシンプルである。太郎をかわいがってくれるお婆さんが杖をついて太郎の家にきて幾晩も泊まり、太郎と幸せな数日間を過ごす。その後、お婆さんは田舎に帰ることになり、太郎は別れを惜しんだ。お婆さんは翌年、椿の花が咲く時期にまた来ると約束して別れたので、期待に胸を膨らませながら、太郎は雪や氷が解け、椿の花が再び咲く季節が待ち遠しかった。しかし、お婆さんは再び太郎の家にやって来ることはなく、永遠に太郎のもとを去ってしまったという話である。

『花と少年』の冒頭文
田舎の親類に、太郎をかわいがってくださるお婆さんがありました。お婆さんはたいそう年を取っていられました。
太郎はそのお婆さんが大好きでありました。いつかお婆さんが、杖をついて太郎の家へ来て幾晩も泊まって行かれた時に、太郎はどんなに賑やかでうれしかったか、そして、お婆さんが、また田舎へ帰って行かれた時に、どんな悲しかったか、太郎は、それを忘れることができませんばかりでなしに、その時お婆さんが、

「来年の春、雪が消えかかって、椿の花が咲く時分には、またきっと泊りがけにやってくる……」と、長い、寒い冬の間、太郎は思い出していました。

少年の太郎が花の咲くのを楽しみにしているのは、花が咲く頃には、お婆さんがそばに再び来るという約束があるからである。これは太郎の願いだけではなく、お婆さんの願いでもある。お婆さんがそばにいてくれる時、太郎にとってどんなに嬉しくて、どんなに幸せであろう。そして、孫は子よりもかわいい、世代を隔てる祖母と孫の間の愛情はどれだけ心温まる心地よさであるか、どれだけ意味が大きいかなどは、どんな言葉の表現でも、はっきりとは言えないである。

お婆さんは孫を愛しているが、有り難い天倫の楽しみをするこてができない。孫はお婆さんを愛しているが、お婆さんにはなかなか会えない。祖母と孫二人の出会いは、制約を受け、制限され、様々な要素の影響を受け、彼ら自身の意に沿うことができない窮状である。実社会では、高齢者も幼い子供も弱者の代名詞、或いは象徴である。多くの場合、彼らは自分の行為を決める権利も資格も能力も持っていない。孫と祖母は毎日懐かしく会いたいのに、なかなか会えない二人である。勿論、いろんな事情があるけれども、それは現実社会でも事実であり、ずっと変わることがない。年よりと子供に対して優しい環境を創り上げるのは最重要な社会の課題である。太郎とお婆さんの気持ちと基本的な権利を大切にするということは、ただ年よりと子供だけのことではなく、基本的なのは、社会文明のシンボルで、美しいことであり、幸せと楽しさを広げ、人生を潤し、豊かにする永遠の人間としての課題であろう。

童話中の「お婆さんが、杖をついて太郎の家へ来て」という原文は短く、長い複文の中に隠されている。読んでも見落とされやすく大切にされないことが多い。しかしこの特殊なシーンを丹念に吟味してみると、作品の深いテーマと密接に関係しているではないのかとの考えに至る。年に一度くらいしか来れない時間と空間のことや、人情的にも距離的にもたやすく太郎の家にやってくることのできないことや、年よりであるから歩くこともそう簡単ではないのにもかかわらず、そばには誰も世話をしてくれる人もいない(距離のこととお婆さんがどのように歩いてきたかについて後で述べてみたい)。一人で杖をついて来たような年よりへの配慮のことについて、太郎のお婆さんだけの問題ではなく、普段よく見られている社会問題なのではないのかと、読者の思考と反省を呼び起こしていると思う。

この童話は楽観的な内容よりも比較的悲観的な描写の方が多い。楽観的な点でいうと、お婆さんが「幾晩も泊まって行かれた時に、太郎はどんなに賑やかでうれしかったか」ということくらいしか描かれていない。童話の中ではむしろ太郎の期待外れとやるせない思いがより重点的に描かれている。勿論、小鳥が梅や椿や桜の木の枝に止まって囀る日々とか、梅の蕾と椿の蕾の描写、あるいは独楽を廻したり、鬼ごっこをしたりするような楽しく美しい描写もあるが、実際に作品の基調としては物寂しい感じだと思う。「長い、寒い冬の間」、「深く雪が積もっていました」、「空には、黒い雲が動いていました」など、力強い響きがあり、重苦しい灰色のイメージが多くある。それは童話の悲しい結末を示唆している。

言い換えれば、それらの表現は太郎がどんなに「待てども、待てども」、再び杖をついたお婆さんには会えなくなる預言者のようであると言える。お婆さんとの楽しい日々、お婆さんとの別れの時の名残惜しさは、太郎の心の中では忘れられない思い出になっている。それらはもしかしたら、子供の心の世界を作り上げる神秘的な力となり、生涯における感情の源と素地になるかもしれない。しかし逆の結果としては、その別れが最後であり、もう二度とお婆さんに会うことができなくなった太郎に対して、そのことがどれほどの衝撃になるかについては、太郎自身が成長に伴って暗い影響を与えたのではないかとつくづく感じて心が痛む。

この悲しい結末とは対照的に、お婆さんと一緒にいる時間は短いけれども、素晴らしい思い出に満ちている。

お婆さんは帰る前に、「来年の春、雪が消えかかって、椿の花が咲く時分には、またきっと泊りがけにやってくる……」と言った。

「また晩には、いろいろな面白い話を聞かれると思って、喜び勇んで」等。
太郎はまた、「今度来るときには、何を土産に持って来ようかな」と言うお婆さんの笑顔を思い出した。言うまでもなく、お婆さんと別れてから、太郎は毎日お婆さんのことを懐かしく思い出している。

簡潔で率直な描写の中で、太郎とお婆さんの互いの愛情に満ちた濃密なイメージが紙の上に躍っていて、生き生きとしている。このような温かい愛情と家族愛は、非常に貴重であるだけではなく、有り難い。しかしながら一瞬にして消え去ることさえあり、とても失いやすくて、守りにくい宝物である。

美しい思い出と、また希望のない期待も含めて、太郎が成長する過程ではその一つ一つが風景になるわけである。

※注釈 注1 小川未明(1882年~1961年)は、童話作家、小説家。故郷の高田中学校時代に漢文や作文を書いて博文館刊の児童誌『少年世界』に投稿していた。中退後に上京し、1901年、早稲田大学の前身である東京専門学校の英文科に入学して、在学中に坪内逍遥の指導を受け、雅号「未明」を付けたのも坪内逍遥である。在学中の1904年に雑誌『新小説』誌で処女作『放浪児』を発表、卒業を前にまた同じ『新小説』誌で『雪珠』を発表した。

卒業後、島村抱月の勧めで早稲田文学社に入社し、『少年文庫』、『読者新聞』などの新聞編集者や『北方文学』誌の編集長を務めた。1907年、初の短編小説集『愁人』を出版した。続いて『緑髪』、『惑星』などの短編小説集を出版し、小説家の地位を築いた。1910年童話集『赤船』を出版した。1919年、労働文学雑誌『黒煙』を創刊し、日本社会同盟の創設発起人となった。同時期に児童文化の復興を推進する『赤い鳥』や『物語世界』などに発表された短編小説と童話は、社会的抑圧、虐待を受けた労働者や農民などの貧しい人々への関心と同情を表していた。大正末期になると、「小説家」としての未明は苦悩と迷いに陥った。

ついに小説と決別し、1926年以降は主に童話の創作に従事し、幻想的な佳作を山ほど沢山発表した、生涯に7800編の童話を創作し、12巻の「小川未明童話全集」がある。1933年、唯一の長編童話『雪原少年』を発表した。小川未明のロマンチックで神秘的な雰囲気の童話は叙情的な色彩が濃厚であり、人間の感情の源を独自に発掘した。長い間、日本の児童文学の分野で非常に高い評価を得てきた。代表作は『野バラ』、『牛女』、『電信柱と妙な男』、『柳とツバメの物語』、『木と鳥になった姉妹』、『殿様の茶碗』、『砂漠の町とサフラン酒』、『黒い塔』、『ある夜の星たちの話』、『幸福の鳥』、『赤い魚と子供』、『銀河の下の町』、『気まぐれの人形師』、『魚と白鳥』、『一銭銅貨』、『お姫さまと乞食の女』、『鐘』、『お母さんは僕たちの太陽』、『楽器の生命』、『南方物語』など。

高鵬飛プロフィール

1956年9月中国黒竜江省生まれ。教授、2016年9月ハルビン理工大学を定年退職、現在重慶外語外事学院に勤めて、上越教育大学外国人研究者。

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