【特別寄稿】小川未明の童話における少年像について―『花と少年』を中心として 第1回(下) 高鵬飛(中国出身、上越教育大学外国人研究者)
童話の舞台は日本の東北の山間部の原野の中の町であり、町や野原、田舎の畑などが繋がって一体となっている濃厚な地域環境の特色、それに人々は素朴な気風を持っている。そして、太郎の心の世界の豊かさと感情の多彩さは、都会育ちの子供とはまったく違い、素朴でまた明朗であり、特に諦めないことが著者の精緻な筆致にほどよく描かれている。老衰したお婆さんの愛情の濃さと同じように、幼い太郎の感情は活発で、素直で、更に言えば力に満ちている。山々に囲まれた広がる野原と一体化しているような厚みを感じる。
童話の中には太郎の父と母に関する描写もあるが、それは太郎が黒い頭巾をかぶって黒いコートを着たお婆さんを自分の実のお婆さんだと勘違いした場面だけである。
ついにまた椿の花が咲く時分になり、お婆さんに会えることを日々楽しみにしていた太郎は、ある日杖をついて歩いているお婆さん一人の姿を見つけた。このプロットの描写は冒頭の「お婆さんが、杖をついて太郎の家へ来て」という描きに呼応していて、太郎の家まで歩いてくるつらさと大変だったことを想像できると思う。
思いがけないお婆さんの姿を見て、太郎は駆け出して追いつき、「お婆さん」と呼びかけたが、お婆さんは、いつものような笑いもなく、なんだか凄い気がした。しょんぼりと立っている太郎に芋を渡してから、何にも言わずに、またあちらを向いて、寂しい方へと歩いて行かれた。太郎は、間違いなくお婆さんだというような気がして、はやく家に帰り、両親に告げようとした。
しかし太郎は家に帰り、「いま、田舎のお婆さんを見た。そして、こんな芋をもらった」と話したら、お母さんは「それは人違いだ。田舎のお婆さんは、去年の暮れにおなくなりなったのだ。お前に知らせると悲しがるだろうと思って黙っていたのだよ」と、伝えた。
お父さんは「何、これは芋ではない、ダリヤの根だ。いまに土に植えるがいい」と、太郎に教えた。
父と母の登場はこれしかない。母はお婆さんの亡くなったことと隠していた理由を話す。父は知識を教えるだけである。太郎にダリヤを植えさせて、新しい期待の中で心の悲しみを解消させようと思っているのかもしれない。父も母も太郎の子供心が分からないのに、分かると思っている。例えば、お婆さんの病気の時とか、亡くなった時にでも、太郎を連れて一緒に見に行くことができたかもしれないのに。
太郎はダリヤを植えた。ダリヤの花が咲くのを楽しみにしながら、またお婆さんに会えることを楽しみにしているはずである。
「太郎は、不思議でなりませんでした。その後外に遊んでいては、あちらの往来の方を眺めていました。そして、また、あのお婆さんに似た姿が通らないかとおもったのであります。」
太郎はおばあさんに会いたい。会いたくてたまらない。
『花と少年』の結び
夏の初め頃に、二本のダリヤ(注2)には美しい花が開きました。一本は紅で、一本は白が混じっていました。
いくら太郎は、自分だけは、お婆さんがまだ生きていなさるとおもっても、待てども、待てども、お婆さんは、ついに太郎の家へは、杖をついて来られなかったのです。
これは太郎の愛に対する堅持であり、愛に対する期待である。太郎はお婆さんがやってくるのを待ち望んでいて、そして、お婆さんがそばにいてくれることを待ち望んでいる。お婆さんと一緒に笑ったり、一緒に遊んだりして、お婆さんの愛を待ち望んでいるのである。ダリヤの花は咲いたが、太郎だけがお婆さんがまだ生きていると思っていても、お婆さんはついには現れなかった。これは太郎の心の中の永遠の痛みになるだろう。
※注釈 注2 ダリヤ(ダリアdahlia)の根、ダリヤの球根。紡錘形で芋に似る。原産地メキシコ。
高鵬飛プロフィール
1956年9月中国黒竜江省生まれ。教授、2016年9月ハルビン理工大学を定年退職、現在重慶外語外事学院に勤めて、上越教育大学外国人研究者。