【特別寄稿】小川未明の童話における少年像について―『花と少年』を中心として 第3回(上) 高鵬飛(中国出身、上越教育大学外国人研究者)

小川未明文学館(新潟県上越市)

小川未明の作品は情感と想像力が豊かで、生命力と情熱に満ちている。ロマンチックで神秘的なストーリーを通じて、読者を驚きと神秘に満ちた世界に導き、生活への愛と自然への賛美を伝え、人間性の真の善美への追求を示し、社会現象や人間の感情に対する深い洞察にも表れている。コンパクトなストーリーを通じて、子供の観察力、認知力、創造力、コミュニケーションと想像力を育成する道徳と教育的意義などを伝え、子供の感情発達に潜在的に積極的な影響を与えている。

前にも述べたが、さまざまな少年像を描くのは、小川未明の童話文学における大きな特徴である。傾向としては、もの寂しい優美な物語である。小川未明は子供心だけではなくて、大人の目の中の世界をも子供向けに遠慮なく描き、その厳しい環境と冷たい人間社会における意味深い物語がはあまりにも残酷なようであるが、やさしい、長くない文字の中で、幼い心に多くのものを啓蒙した働きは明らかである。そして、子供だけではなく、大人の心にも触れる作品である。これは小川未明の童話文学の独特な傾向でもある。

次は、改めて『花と少年』に描かれたお婆さんが亡くなったことをめぐり、まとめて述べてみたいと思う。

まずは、そもそもお婆さんが亡くなったことを両親はまだ大人ではない太郎に隠すべきではないし、それは肉親の気持ちでも、人間としての感情的にも、また子供の育て方にしても許せないことであると思う。まだ幼い子供ではあるが、成人と同じように、お婆さんとの最後の別れをすべきである。親としても子供の事情を知る権利を奪うことはできないばかりか、その権利は守られるべきである。

因みに『花と少年』を読んでいて、もう一つの感想ではあるが、父と母の立場より、太郎とお婆さんとの間の感情と気持ちの方がどれほど有り難いのか、どれほど意味深いのかが分かるのかどうかについて大切な問題である。お祖母と孫と一緒にいる時の幸せと別れる時の辛さを両親として、どれぐらい理解しているのかという問題である。子供と平等に付き合うことができるのかどうか、子供に対して十分に尊重をしてあげたのかどうか、子供の幼い心を傷つけないように守ることができるのかどうかなどの問題である。実に、親である人間こそが子供に対して取り返しのつかない傷を与えることは現実社会には少なくないようである。これはただどなたの家庭問題ということではなくて、一般的な、また大切な社会問題ではないのかと考えている。

お婆さんは孫の太郎を愛している。太郎も勿論お婆さんを愛している。この祖母と孫の愛は人間世界における、最も美しい、素晴らしい絆に違いないし、人間の愛の感情世界では最も純粋な愛である。年を取ったお婆さんと天真爛漫な太郎の間の掛け替えのない人間の真髄のような存在であるが、その別れる時から既に悲劇が始まり、二度と会えない永遠の「さようなら」ということになったけれども、それはお婆さんも分らないし、太郎も分からない。更に悲劇的なのは、弱小で無邪気な少年が、何も知らない期待の中で迎えてきたのは、不可解な悲しい結末であった。大人にさえ耐え難い痛手であっても、太郎の幼い心に押しつけられてしまったことは考えれば考えるほど悲しくてやりきれない。

 

高鵬飛プロフィール
1956年9月中国黒竜江省生まれ。教授、2016年9月ハルビン理工大学を定年退職、現在重慶外語外事学院に勤めて、上越教育大学外国人研究者。

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