【特別手記】「横田めぐみさんとご家族の耐え難きを耐えている途方もなく長い時間について」横田めぐみさんとの再会を誓う同級生の会 池田正樹代表(上)

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掲載日:2024年6月14日(最終更新:2024年6月23日)

横田めぐみさんの母、横田早紀江さん(2022年11月、新潟市にて撮影)

私は北朝鮮に拉致された横田めぐみさんと小学校、中学校とずっと同じクラスだった池田正樹と申します。めぐみさんとご家族の耐え難きを耐えていらっしゃることについてお伝えします。

めぐみさんはごく普通の家庭で生まれ育った。どこにでもある日常がそこにあった。1977年11月15日に拉致されるまでは。

めぐみさんは名古屋の病院で生まれた。滋お父さんは女の子が欲しかったから、めぐみさんが生まれてとても喜んだ。めぐみさんが小さい時から趣味のカメラでたくさん写真を撮ってらっしゃった。1976年7月、滋お父さんの勤務先である日本銀行の転勤に伴う転校でめぐみさんは新潟小学校に転向してきた。6年3組、私は同じクラスだった。そして持前の明るさですぐにクラスに溶け込んだ。

給食の時間などで誰も話さない時間があると必ずと言っていいほど、めぐみさんが話題を提供して友達の笑顔を見て自分も喜ぶ、そんな優しい少女だった。そして、実はめぐみさんはひょうきんな面もあった。隣の生徒がぎりぎりで登校してくると「ギリギリセーフ!」とおどけていたものだ。勉強の成績もよくスポーツも得意だった。

新潟の自宅から徒歩5分程の寄居浜。この海岸から北朝鮮の船に乗せられたのかもしれないと思うと胸が締め付けられる。

めぐみさんの双子の弟である拓也さんと哲也さんの二人は大人になって初めてこの海岸を訪れて、あらためて姉めぐみさんの早期救出を誓ったのであった。めぐみさんが唯一卒業した学校の新潟小学校。その卒業アルバムである。

もちろんめぐみさんがそこにいる。めぐみさんとの微笑ましく懐かしい思い出が目に浮かぶ。めぐみさんは合唱部だった。卒業の謝恩会で「流浪の民」という曲を合唱。ソロパートを綺麗な声で歌っていた。「慣れし故郷を放たれて夢に楽土求めたり」。

そのような歌詞があり、めぐみさんの辛すぎる境遇そのものだったのだ。早紀江お母さんはこの録音テープをもってらっしゃる。久しぶりにその声を聴きた時には涙が止まらなかった。滋お父さんの勤務先、日本銀行新潟支店は学校から徒歩1分程。滋さんは愛娘の卒業式にきっと出席されて成長した姿を見てきっと泣いてらっしゃっていたと思う。

1977年4月、新潟市立寄居中学校に入学。実はめぐみさんは風疹で入学式に出席できなかった。次の日曜日に、少し嫌がるめぐみさんを滋さんが学校の前庭に連れ出して撮った写真である。私はめぐみさんと同じバドミントン部で学校に行った。その際に休日に制服を着て、横田はなにをしているのかなと思った。滋さんはスーツを着てらっしゃった。

おそらく嫌がるめぐみさんに「お父さんもスーツを着るからめぐみも制服を着てくれよ」。そんな会話があったのかもしれない。滋さんはめぐみさんにここに立ってくれとか、斜めに立つと綺麗に映るからとか、おっしゃっていてとても楽しそうだった。写真は今年同じ場所で撮ったもの。あの時の桜は朽ちて切られていた。それだけ途方もなく長く辛すぎる時間が経過してしまったのである。

 

【特別手記】「横田めぐみさんとご家族の耐え難きを耐えている途方もなく長い時間について」横田めぐみさんとの再会を誓う同級生の会 池田正樹代表(下)へ続く。

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