【コラム】「ジープ島物語」ここには都会にある物は全てなく、都会にない物が全てある 第5回「Kimio Aisek」ジープ島開島者・吉田宏司(新潟県上越市出身在住)
35歳を過ぎると、私の海外への旅はより多くなり、毎月出歩くようになった。青を求めての旅の中で、その当時私が最も行きたくなかった所がトラック諸島(現チューク州・ミクロネシア連邦)である。その理由としては、太平洋戦争時トラックは日本海軍の基地であり、トラック環礁内に大和、武蔵を中心とした約500隻の大日本帝国海軍の船が停泊していたからである。
日本がハワイの真珠湾を攻撃した2年後の1944年2月17日、18日の2日間に渡り、アメリカ軍の攻撃(作戦名:hail stone)を受け、壊滅状態に陥った。いわゆる「トラック大空襲」である。
その結果、トラック環礁内に浮かぶほとんどの巡洋艦、駆逐艦、輸送船が沈められ、この攻撃により多くの日本人が亡くなった。
この歴史の惨劇を以前から聞いていたので、トラック諸島にだけは潜りに行くまいと思っていたのである。
しかし、当時世界のダイビングポイントを潜る目的で600名ほどいたダイビングクラブでは、世界のポイントを潜り終えてしまっていて、最後に残されたのがトラック諸島だった。
みんなが行きたがっているなら……という思いで、重い足どりでトラック諸島の調査に出かけたのである。
私は日本(成田)から一旦グアムに行き、明け方グアムで乗り継いでトラック諸島に到着した。その後、モエン島(春島)の最南端にあるトラックコンチネンタルホテルに行き、それから、ブルーラグーンダイブショップのスタッフがホテルまで迎えに来て、ダウンタウンにあるダイブショップまで行くことになった。迎えに来たトラックはボロボロで助手席に座るとドアがなく、大きな穴だらけの道を蛇行運転を繰り返した。
ドアがないので木の枝が何度も顔に当たるのを手でよけながら、30分走らせてようやくダイブショップに到着した。その日は大変暑く、真っ青な海が広がる海岸線では、スタッフがタバコをふかしたり、ボンネットの上で寝ているものもいたりで、たいへんのんびりした南の島の風景が目に飛び込んできた。
ドライバーにオーナーが中にいるから入るように云われ、太陽のまぶしさの中、建物の中に入ると、真っ暗で目の焦点が合うのに少し時間がかかった。建物は周りが金網でおおわれ、まるでにわとり小屋のようなたいへんお粗末なもので、私が世界中で見たダイブショップの中で最も見すぼらしかった。
ようやく目の焦点が合うと、部屋の奥に茶色いズボンで上半身裸の老人が後ろ向きに立っていた。そして老人は、すぐにアロハシャツをはおり、振り向いて私に近づいてきた。私は「Hello!!」と話しかけながら、握手を求めると、130kgの巨体の老人は素晴らしい笑顔で手を差し出し、日本語で「ようこそいらっしゃいました。どうぞお座りください」と云って来た。
私は驚き、椅子に腰かけながら、「日本語を話せるんですか?」と尋ねると、「少しはねー」と答えた。
それから老人はたいへん流暢な日本語で、「私は夏島の生まれです。戦前には夏島に日本の民間人が1000名くらいいたよ。それから陸軍が来てそのあと海軍が来たよ。13歳から私は陸軍と海軍の仕事をしたよ。その中に日本人の1人の友達がいたよ。その人は愛国丸という巡洋艦の下士官で、いつも私を可愛がってくれて、カヌーでバナナやヤシの実を持って行くと、大きな船の甲板で遊んでくれて、最後にヨウカンやミカンの缶詰や石けんをよくもらったよ。その人は40歳過ぎで私は10代だからちょうど親子くらいの年の差で、日本の静岡の出身の人だったよ。きっと私くらいの子供が日本にいたんだろう。日本に中々帰れないから、私を可愛がってくれたんだろう。その人の名前は内田さんと言って、1944年2月17日にアメリカ軍の攻撃を受けて船と一緒に水深60m下まで沈んで亡くなったよ。本当にいい人だったよ」
大きな目を少しうるませながら話すその老人の流暢な日本語、ゆったりとした話し方、物腰の柔らかさ、私への気配り…‥。さらに、その老人からあふれ出る滋味というものが南の島の独特の雰囲気と重なり合い、いつしか私を虜にした。
そして、キミオさんに「あんたは何処の出身?」と聞かれ、「新潟」と答えると「富山の近くだね。昔陸軍の富山の部隊がいてねー。私の上官だったよ。だから毎年たくさんの立山という酒を送ってくるよ」
「あんた酒は飲む?」
「はい、飲みます」
「それじゃー、今度ホテルに立山を持って行くよ!!」
「一緒にマグロの刺身でも食べながら、熱燗でやろう。やはり、日本酒は熱燗がいいねー」
そして、最後に「私に何かして欲しい事はありますか?」と聞くと「あるよ!ひとつね」と答えた。
「私は日本語を話せるから、たくさんの日本人と話したいよ。今、アメリカのダイバー達がたくさん来てるけど、私は日本語を話したいよ。もしよかったら、日本人のダイバーを連れて来てね」とキミオさんは云った。
その年から多くの日本人ダイバーをトラック諸島に連れてきたり、送り込むことになった。そして、最初に出会ってから、3年後くらいにホテルに息子のグラッドフィンと共にやって来て、「あんたには本当に世話になったよ。何かあんたにお礼したいよ。何でもいいから云ってね」と云われ、ファナンナン島(現ジープ島)を買って欲しいと話し、「私が住んで一切の周りの捕獲を禁止して、ダイナマイト漁で破壊されてしまったサンゴをもう一度再生させたい」と申し出た数ヶ月後に東京・吉祥寺のマンションに電話が入り、「キミオだけど、島買っといたから、あんたいつでも住めるよ」と云われたわけです。
これが私とキミオ・アイセック氏との出会いであり、この翌年1997年に私の楽園構想が動き出すわけです。すでに、ジープ島を開島してから28年を迎えますが、キミオ・アイセック氏は常に私の心の中にあります。
人の出会いというのは、計り知れないものであり、遥かに人智を超えているような気がしてなりません。
吉田宏司
随筆家、海洋研究家、ジープ島を運営する代表者。1956年新潟県上越市生まれ。青山学院大学卒業後、ダイビングクラブを主宰しながら、約15年にわたり、ダイバーを世界中に案内し、自身も世界中の海に潜る。
1997年、40歳の時に少年時代からの夢だった「無人島を開拓して、ゲストに大自然を感じてもらう宿泊施設を建てる」と一大決心。1周275歩直径34mの無人島「ジープ島」に入島(グアムから飛行機で1時間半南下したミクロネシア連邦、トラック環礁に位置する島)。ダイナマイト漁で破壊されたサンゴの海を15年かけて再生させ、魚やイルカが集まる島へと成長させた。
シープ島は2009年に放送されたテレビ番組「世界の絶景100選」で第1位に選ばれたほか、2020年元旦放送のテレビ番組「なるほど!ザ・ワールドから新年あけまして!!奇跡の絶景スペシャル〜」に出演、雑誌「ブルータス」の表紙にもなるなど、新聞、テレビ、雑誌から多くの取材を受けている。また、世界海洋ボランティア協会の会長、海洋自然学校の創始者でもある。現在はジープ島にも行きつつ、妙高山を中心とした吉田自然塾を主宰している。
著書に「もしあなたが、いま、仕事に追われて少しだけ解放されたいと思うなら。」(KADOKAWA)、「South-ing JEEP ISLAND」(普遊舎)がある。