【ジープ島物語】〜ここには都会にある物は全てなく、都会にない物が全てある〜第8回「無人島生活」ジープ島開島者・吉田宏司(新潟県上越市出身在住)
1997年9月、私の無人島生活が始まった。ジープ島は本島のモエン島の最南端にあるブルーラグーンリゾートから凪であれば、ボートで約40分の南東に位置していて、島の周りは、サンゴのまっ白な砂が広がり、ヤシの木15本の一周3分程で回れてしまうたいへん小さな島であった。
私が無人島に一人で住もうと決意した時に、ブルーラグーンダイブショップのオーナーのキミオさんに「無人島に一人で住んでたら、大体半年くらいで頭が変になるよ!一人スタッフ用意しておいたから、一緒に連れていきなさい!!」と言われた。当時私は40歳、彼は39歳で名前は「シンノスケ・フィテ」といい、たいへんおだやかな人柄であった。昔の日本統治下の影響で、その頃にはまだ日本語を話せる老人がいたり、名前は日本名が多かった。そのシンノスケの父親は「サダイチ」といい、キミオさんの元の奥さんは「キク」という名前であった。
私がホテルの桟橋からボートに乗り込もうとしていると、キミオさんがやって来て、日本語で「あの島は小さいよ!嵐も来れば、台風も来るから無線を積んで置いたからねぇー!嵐が来る前にボートを送るから、必ず帰ってきてねぇー!ホテルを一つ買っておいたから、いつでも泊まれるよ!!お金なんか要らないよ!いつでも来てねぇー!!」とたいへん温かい言葉で嬉しくなったのを今でも鮮明に覚えている。私はお礼を云い船に乗り込むと、後ろに大きな段ボール箱が積んであり、ボートが動き出してのぞいてみると、そこには米、しょう油、玉ねぎ、さば缶がたくさん入っていた。私は船の上に立ち、頭を下げ、晴天の凪の海をジープ島(旧ファナンナン島)に向かった。
夏島と秋島の間を通り、15分くらい走らせた辺りで、遠くの水平線に小さくポツンと浮かぶジープ島が黒い点のように見えた。それから一気に島を目指して疾走し、ジープ島が近づいて来ると、濃い海の青さが、どんどん薄い青に変わり、澄み切った海の中に多くのサンゴが見え始めた。それからボートを減速させ、一旦海に入り、歩いて上陸した。そして、その時私は祈るように、「もはや失うものは何もない!3年は必ず忍耐してみせる!!」という思いで……そして、いよいよ無人島生活が始まったわけである。
初めの頃は、たいへん天気もよく、島で360度見渡せる風景に大感動した。ゆっくりと昇る太陽の朝焼け、遠くにスコールがあるとそこに立つ2重3重の虹、島の近くを通るイルカ達、島にやって来るミツスイやサギやアジサシやシギなどの鳥達、そしてマスクを付ければ浅瀬ですぐに見れる色とりどりのサンゴと熱帯のカラフルな魚たち、波打ち際で顔を水中に入れれば、「カラーン!カラーン!」と聞こえる心地良いがれきのサンゴのぶつかる音、そして太平洋の真只中に沈みゆく夕陽、そのあとの青、黄、ピンク、赤と空を染めていく夕焼け、夜には南十字星などの満点の星空、そして月の出、月の入り、とりわけ一番驚いたのは、満月の月の出だった。西の空に太陽が沈んだ40〜50分後に、いきなり東の水平線から大きな月が顔を出した時にはたいへん驚き、水平線から出てくる月は、たいへん大きくまっ赤なんだと初めて知らされた。
そんな感動の日々が約3ヶ月くらい続いただろうか?周りの海のサンゴがガレキとなって朝ビーチに大量に上る為、私の毎日の仕事はゲストが来たらビーチを裸足で歩けるようにと、朝暑くなる前のサンゴ投げであった。サンゴを海の中に放れば、波に洗われて、どんどんサンゴの砂が出来るのである。毎日シノが食事を作るのだが、毎日サバ缶ばかりなので、4ケ月目にはうんざりしていた。たまに本島のダイブショップからツナ缶が届くとたいへんうれしかった。ときおり、島の近くを通る漁師がツムブリ、アジやカツオをビーチに投げてくれることがあった。
それから4ケ月目の半ばくらいに嵐がやって来た。西の方角から冷たい風が吹き出したと思ったら、一時間後くらいに大雨になり、始めは全身に石けんをつけて洗ったりしていたが……その雨は一向に止む様子がなく、まるでバケツをひっくり返したように地面を叩きつけた!私がいるヤシ吹きの小屋には壁がなかったので、体に青いビニールシートを巻きつけてできるだけ濡れないように寝た!深夜、トイレに行きたくなり起きたが、全く何も見えなかった。まさに漆黒の闇であった。私にとっては初めての経験で、懐中電灯を持っているシノを何度も呼んだが、何処で寝ているかもわからずその時私は一抹の不安を覚えた。
2か月くらい前に番犬にする為、本島から連れてきたまっ白の小犬のヒロの事を思い出した。全く何も見えないので、その辺で用を済ませ、再びビニールシートにくるまった時に「ヒロ!」と呼んだ瞬間、犬が懐の中に飛び込んで来た。そして、あたたかいヒロを抱いたまま朝まで寝ていたら、明け方嵐は去り、東の空が青くなり始めていた。
それから5ケ月目くらいまでは朝のサンゴ投げと1日に1度シュノーケリングとダイビングを行い、島の周りの海を調査していた。その間に、夜何度か上陸しているウミガメを目にした。
しかし、6ケ月目に入ると、私の体の下半身、特に足がはれ出した。ちょっとしたすり傷が化膿して、どんどん大きくなって痛み出すのである。パンパンに腫れ上がった先をナイフで切ると血と膿が飛び出すという変わったものであった。現地では誰もがなるもので、いわゆる風土病で「マッチ」と云われていた。誰も住んだことのない無人島がたいへんピュアで、私の体にはたくさんの悪いものがあり、それが中から出たがっているのではないか?と思えた。
しかし、これは直ぐに治るものではなかった!1つが治るとまた別の所に出てきて、大きさが段々大きくなっていった。そしてふくれ上がると熱が出るようになっていった。しかし、私には全くお金がなかったので病院に行くこともできず、腫れた先をナイフで切って、血と膿を出す事しかできなかった。それは半年以上続き、その間、私は流れついた棒を杖にして歩いていた。しかし、1年が経とうとしている頃には、トイレも行けなくなり、食欲はおとり、シノが私をおんぶして行くようになった。私はマッチの熱のせいでその年15kgやせた。
私はその後寝込むようなり、ようやく1年過ぎようとしていた。そしてその頃、日本の大手の旅行社から連絡が入り、ジープ島を商品化する契約を結ぶことになった。その瞬間、私は安堵の思いと同時に病気の疲れで意識を失い倒れた。無人島の1年間で私の心は大海に浮かぶ一枚の落ち葉の如く大揺れに揺れ、唯ひたすら忍耐の一年だったのである。
随筆家、海洋研究家、ジープ島を運営する代表者。1956年新潟県上越市生まれ。青山学院大学卒業後、ダイビングクラブを主宰しながら、約15年にわたり、ダイバーを世界中に案内し、自身も世界中の海に潜る。
1997年、40歳の時に少年時代からの夢だった「無人島を開拓して、ゲストに大自然を感じてもらう宿泊施設を建てる」と一大決心。1周275歩直径34mの無人島「ジープ島」に入島(グアムから飛行機で1時間半南下したミクロネシア連邦、トラック環礁に位置する島)。ダイナマイト漁で破壊されたサンゴの海を15年かけて再生させ、魚やイルカが集まる島へと成長させた。
シープ島は2009年に放送されたテレビ番組「世界の絶景100選」で第1位に選ばれたほか、2020年元旦放送のテレビ番組「なるほど!ザ・ワールドから新年あけまして!!奇跡の絶景スペシャル〜」に出演、雑誌「ブルータス」の表紙にもなるなど、新聞、テレビ、雑誌から多くの取材を受けている。また、世界海洋ボランティア協会の会長、海洋自然学校の創始者でもある。現在はジープ島にも行きつつ、妙高山を中心とした吉田自然塾を主宰している。
著書に「もしあなたが、いま、仕事に追われて少しだけ解放されたいと思うなら。」(KADOKAWA)、「South-ing JEEP ISLAND」(普遊舎)がある。