【ここには都会にある物は全てなく、都会にない物が全てある】第10回「負けず嫌いというキミオ・アイセック氏の言葉」ジープ島開島者・吉田宏司

故キミオ・アイセック氏

キミオ・アイセックは1927年に夏島の漁師の子供として生まれた。12歳の時に、ちょうどその頃夏島に駐屯していた日本陸軍にて運搬作業の仕事を始め、13歳の時には日本海軍の仕事にも従事するようになった。その当時トラック環礁には日本海軍の基地があり、戦艦大和を中心とする約500隻の船が環礁内に停泊していた。

13歳のキミオ少年は夏島のすぐ近くに停泊していた「愛国丸」という巡洋艦に、小船で椰子の実や果物などを運ぶ仕事をしていた。その時愛国丸には静岡県出身の内田さんという下士官がいた。キミオ少年が椰子の実などを持って上がっていくと、いつも内田さんは快く迎えてくれて、船の甲板を案内してくれたそうだ。そして、まだ若いのに一生懸命働いているキミオ少年を見て感心し、帰りには必ずミカンの缶詰やヨウカンや石鹸を持たせてくれたそうだ。内田さんは当時40歳くらいだったので、ちょうどキミオ少年くらいの子供が静岡にいたのかもしれない。

年の差がある2人の関係は約4年ほど続いた。その間に北東の水路から出入りする大和と武蔵の姿を見たそうである。2隻の船が夏島と春島の間に並ぶと夏島からは春島が全く見えなかった。そのような光景を見て、キミオ少年はもし戦争が始まっても日本は絶対に負けるわけがない!と思っていた。

また、この4年の間に、内田さんはキミオ少年にいろいろなことを教えてくれた。日本には四季があり、たいへん美しい国であること、春には桜が至る所で咲き、みんなで花見をすること、東京には皇居があって、そこには天皇陛下が住んでいること等々…。当時、そんなことを教えてくれるトラック人はいなかったので、キミオ少年は真剣に話を聞いたそうだ。

月日が経つにつれ、日本の戦局は悪化の一途を辿っていく。次第にアメリカ軍の侵攻が進み、太平洋を北上しているという話を耳にするようになった。それでもキミオ少年は日本は必ず勝つ!と思い込んでいた。

1943年の終わり頃、キミオ少年は内田さんに戦争のことを色々と聞いたりしていた。その時、内田さんが彼に言った。「いいか、キミオ。よく聞くんだ!戦争はどちらかが負け、どちらかが勝つものなんだ。これから戦局がどうなるか私には分からない。しかし、お前に日本の言葉をひとつ教える。それは『負けず嫌い!』という言葉だ。これからどんな事が起ころうとも絶対に人に負けては駄目だ!そしてそれ以上に自分に負けたら駄目なんだ!!そのことをよく肝に銘じておくように」と…。既に二人は親子のような関係になっていた。

キミオ・アイセック氏(中央)とジェームズ・キャメロン監督(右)

翌年1944年の2月17日、17歳になったキミオ少年は夏島の家で寝ていた。未だ夜が開けきらない頃です。突然キミオ少年の叔父さんが家に入ってきて「キミオ!早く逃げるんだ!!アメリカ軍が攻めてきた」と言って叩き起こされた。キミオ少年は驚き、一気に駆け出して、ジャングルの中にある防空壕に逃げ込んだ。アメリカ軍は、夜明け前に北東のパスから190機のグラマンで攻めてきた。

キミオ少年が防空壕に逃げ込んだ時には、親戚の者たちが先に来ていて既に中は一杯だった。キミオ少年は一番出口付近に座っていた。叔父さんが「いいか!絶対に外に出ては駄目だ!!アメリカ軍は空から攻撃してくる。夏島には海軍の基地があるから間違いなく攻撃してくる!」と皆に言い聞かせた。しかしその時、キミオ少年には一つのことが気になっていた。それは愛国丸に乗っている内田さんのことだった。「内田さんは今どうしているだろうか?無事でいるだろうか?」。内田さんの安否が気になってしょうがなかった。しばらくして一斉にアメリカ軍の攻撃が、トラック環礁内に浮いている船をめがけて行われた。攻撃は数時間経っても止まなかった。そしてついに我慢仕しきれなくなったキミオ少年は、叔父さんの言葉を無視して一気に防空壕を飛び出し、未だ空からの攻撃が続いている中、大きな木から木へと身を隠しながら、港めがけて駆け下りていった。

そして、島の突端に出て海を見下ろすと、浮かんでいる愛国丸が目に入った。キミオ少年はほっとしてひざまづいた。しかし、安堵の思いが心をよぎった瞬間だった!。いきなり2発の魚雷が愛国丸に命中したのだ。船は半分が大破して吹っ飛び、海の底に沈んでいってしまった。キミオ少年はあまりのことに泣きじゃくり、そのまま再び防空壕に戻った…。

戦艦大和と戦艦武蔵

戦争が終わり、キミオさんは19歳で結婚した。それから船乗りになりグアム・パラオ・ハワイに出かけた。そして1963年にハワイにて初めてダイビングを行った。その当時はゲージがなく、途中でエアーが薄くなると上がってくるスタイルだったそうだ。

1968年にトラックに戻ったキミオさんは、1970年にトラック政府の海洋資源の調査の仕事に従事した時に、ダイブマスター(ガイド)の資格を取得した。そして1973年に43歳で「ブルーラグーンダイブショップ」をトラックにてスタートさせる。それもタンク4本だけで…。その当時の様子をこう語っている。「最初にアメリカのダイバーが来たよ!午前中1本潜るとタンクが空になるから、また春島に戻ってエアーのチャージをして午後また潜りに行ったよ!!」

またその年の11月、ミクロネシアで60mまで潜っているダイバーがいるという噂を聞いて、フランスからクストーが夏島までやってきた。クストーといえばアクアラングの発明者で、カリプソ号で世界中の海を巡り、潜って調査した初めての人である。彼は夏島に3ヶ月滞在して、トラックに沈んでいる沈船を調べていったそうだ。

その後、キミオさんは環礁に沈んでいる沈船をすべて潜り尽くして、トラックを沈船ダイビングのメッカにしてしまった。それを聞いた世界中のダイバー達が、キミオさんに会いに訪れるようになり、クストーを始め、アメリカのJFケネディ・ジュニア、映画『タイタニック』のジェームズ・キャメロン監督、ハリウッドで有名な水中監督のアル・ギディングスや多くの俳優達など、有名人とも親しくなっていった。大柄で恰幅もよく、悠然とした一見南の島の王様を思わせるような風貌と、実にゆったりとした話し方で人の心を包み込んでしまう、まるで海のような性格が多くの人を惹きつけて離さなかったのだと思う。

私が無人島に住むと言った時に、キミオさんは、「吉田さん、あの島は小さいよ!時には嵐もやって来るからね。その時には無理しないでいつでもホテルに泊まりなさい!ホテルをひとつ買っておいたから。…お金なんかいらないよ!今まであんたにはお世話になっているからね」

また、キミオさんはたいへん流暢な日本語でいつも話していた。「日本はいい所だよ!もう一度行って見たいよ!!二重橋あたりを歩いて見たいよ」と…。

ある夜、ブルーラグーンリゾートの敷地内でブルーラグーンダイブショプ25周年記念パーティーが500人くらいの現地人と外国人によって開かれたことがあった。

キミオさんは州知事と副知事の間に座っていた。私はバーのカウンターでウイスキーの水割りを飲んでいた。そのバーからキミオさんが座っている所まではかなりの距離があったのだが、私の水割りのグラスが空になっているのに気づくと、すぐにスタッフに「注いできなさい!」と指示してくれた。これには私もびっくりした。すると、今度は自分と知事の間に椅子を入れて私に来るようにと言った。130kgの巨体を動かしながら「吉田さん、一緒に写真でもどうですか?」と言ってくれたのだ。これには更に驚いた。多くの人が出席している中で、何故私を呼んだのか、分からなかった。

そしてパーティーの最後にキミオさんが書いた原稿を、あるアメリカ人の女性が英語で朗読した。それにはこのようなことが書かれていた。

「私は生涯を通じて大きな悲しみと大きな喜びを味わってきました。その大きな悲しみとは、私を4年以上、実の子供のように愛してくれた愛国丸に乗っていた内田さんが、1944年2月17日に私の目の前で船と共に海に沈んでいってしまったことです。そして大きな喜びとは、その日本人の内田さんから子供の時に『負けず嫌い』という言葉を教えてもらったことです。私は生涯その言葉をただひたすら信じて頑張ってきました。それは今考えても間違ってなかったと思います」

その後みんなで小さなテーブルを囲んで食事をしている時に、また私を呼んで隣に座るように言った。私にお酒を注いでくれた後、「吉田さん。あんた『負けず嫌い』という日本語を知ってる?」と聞かれた。私は「はい!知っています。日本人なら誰でも知っている言葉です」と答えた。すると、キミオさんは私の目をじっと見て「あんたも縁あってトラックまで来たんだからね!その負けず嫌いという言葉を信じて頑張ってください!!日本人だからね」と言った。

そして私自身もそのことを信じて、その後様々な困難を乗り越え、目標であった無人島生活3年を越えていく事ができたわけである。

キミオ・アイセックは、海の男であり、日本を心から愛した人だった。また、太平洋戦争のトラック大空襲での生き残りであり、沈船ダイブでトラックを世界に知らしめた偉大な「レジェンドダイバー」でもあった。

 

吉田宏司

随筆家、海洋研究家、ジープ島を運営する代表者。1956年新潟県上越市生まれ。青山学院大学卒業後、ダイビングクラブを主宰しながら、約15年にわたり、ダイバーを世界中に案内し、自身も世界中の海に潜る。

1997年、40歳の時に少年時代からの夢だった「無人島を開拓して、ゲストに大自然を感じてもらう宿泊施設を建てる」と一大決心。1周275歩直径34mの無人島「ジープ島」に入島(グアムから飛行機で1時間半南下したミクロネシア連邦、トラック環礁に位置する島)。ダイナマイト漁で破壊されたサンゴの海を15年かけて再生させ、魚やイルカが集まる島へと成長させた。

シープ島は2009年に放送されたテレビ番組「世界の絶景100選」で第1位に選ばれたほか、2020年元旦放送のテレビ番組「なるほど!ザ・ワールドから新年あけまして!!奇跡の絶景スペシャル〜」に出演、雑誌「ブルータス」の表紙にもなるなど、新聞、テレビ、雑誌から多くの取材を受けている。また、世界海洋ボランティア協会の会長、海洋自然学校の創始者でもある。現在はジープ島にも行きつつ、妙高山を中心とした吉田自然塾を主宰している。

著書に「もしあなたが、いま、仕事に追われて少しだけ解放されたいと思うなら。」(KADOKAWA)、「South-ing JEEP ISLAND」(晋遊舎)がある。

 

【関連記事】
ジープ島関連記事

 

【ジープ島問い合わせ先】
株式会社オアシスツアーセンター

電話03(3318)6919
メールアドレスtabi@vacations21.com

こんな記事も

 

── にいがた経済新聞アプリ 配信中 ──

にいがた経済新聞は、気になった記事を登録できるお気に入り機能や、速報などの重要な記事を見逃さないプッシュ通知機能がついた専用アプリでもご覧いただけます。 読者の皆様により快適にご利用いただけるよう、今後も随時改善を行っていく予定です。

↓アプリのダウンロードは下のリンクから!↓