“寺密度日本一?” 新潟県上越市高田地区「寺町」の秘密を探る
新潟県上越市高田地区には、旧高田城(現高田城址公園)から見て西側に65の寺院・神社が整然と立ち並ぶ「寺町」が存在する。これは全国的見ても珍しいもので、一説には、“寺密度日本一”とも言われている。浄土真宗開祖の親鸞聖人との関係性がある寺町は直線に並んでいるが、なぜ寺院が道路に沿って並んでいるかという素朴な疑問が沸いてくる。この点について、上越市公文書センターの福原圭一上席学芸員は「高田城は徳川家康の6男の松平忠輝が入るために、1614年に築城された新たな城であり、そのため、城下町の都市プランもゼロから設計できたからではないか」と見る。
実際に高田の城下町は京都のように碁盤の目になっているのだ。
当時の江戸時代は「士農工商」で知られる身分制社会だったわけだが、寺院の僧侶や神社の神官はこの身分制度の外に置かれた。そのため、寺町が城下町の周縁部に配置されたのではないかという。また、城下町は町人の職種別に町が分かれていたことから、寺が集まったのも身分や職種による分類からではないかと福原上席学芸員は推測している。
加えて、なぜ西側に集積されたかという疑問を解く鍵は城下町の立地にある。「高田の城下町が段丘や自然堤防の上にできている点だ」と福原上席学芸員は言う。「高田城の外堀はよく知られるように関川が蛇行していた部分を利用して造られた。城の東側に新しく流路を開削したため、当初関川はかなり荒れて水害も多かったという地形の専門家もいる。高田城や城下町は被害を受けない川より高いところに立地している。つまり、関川の氾濫原となる城の東側には町を造ることはできなかったと考えられる」と福原上席学芸員は分析してみせた。
一般的に言われている加賀(現在の石川県)の大名・前田家へ対応するため、西側に寺町を集積して高田の城下町を守るという説や、仏が西にいる西方浄土という考えに基づいた配置という説は誤りだと福原上席学芸員は言う。
「前田家がもし攻めてくるならば、わざわざ山を越えて西から攻めてこない。通常は、北国街道を使い、北から来るはずだ。そのため寺町は防御にはならない。また、西方浄土についても、もしそうならば、すべての寺が東側を向いて、高田城と対面しなければならないが、必ずしもそうではない」(福原上席学芸員)
一方、親鸞聖人との関係については、東西の本願寺でも持っていない親鸞聖人の頂骨(頭部の骨)が寺町の浄興寺にある。一般的には直江津地区に上陸した親鸞聖人が、現在の上越市で布教したから同市では浄土真宗の信者が多いと言われてきたが、寺町にある真宗寺の淀野壮介住職はそうではないと指摘する。
淀野住職は「親鸞聖人は自分が開祖だとは言っていない。だた、法然の弟子だと思っていただけで、『これが法然さんの本当の教えだ』と言っていたのだと思う。上越地域で浄土真宗が多いのは、蓮如上人が師である親鸞聖人の足跡をたどった結果としてということだ。蓮如上人はすごいカリスマ性のある人で、上越市のあたりも真言宗の寺も浄土宗の寺もほぼ浄土真宗に変わっていくということが起きた」と話していた。
新潟県には村上市や新発田市などいくつか城下町があるが、上越市高田の城下町は、前田家への警戒の意味や佐渡金山に近かったことなどから、家康の実子が送り込まれるなど徳川幕府が重要視していた藩ということがわかる。寺町はそんな城下町高田の貴重な“副産物”と言えるだろう。
(文・梅川康輝)