【参院選インタビュー】塚田一郎氏① 一見とっつきにくそうだが、お茶目な一面も
参議院議員選挙が4日公示される。新潟選挙区から立候補予定の候補者については、記者会見の様子などで伝えてきたが、今回は、自民現職で3期目を目指す塚田一郎氏の人となりや政策を2回に分けて紹介する。1回目は「人となり編」。
自らスパイスを調合してカレー作り
一見とっつきにくそうな参議院議員の塚田一郎氏(55)だが、お茶目な一面もある。子どもの頃からの好物が駄菓子のラムネ。こだわりがあって、パッケージにリスの絵柄が付いた「クッピーラムネ」がイチオシだとか。
カレーも大好物の一つで、独身時代も結婚した今も自らスパイスを調合し手作りする。その“オリジナルカレー”が登場する家庭だが、元アナウンサーの奥さん、志保氏と、小学3年生になった息子との3人暮らし。
塚田氏の父が十一郎で、衆参議員、郵政相、県知事を務めた大物議員だった。息子の名は「十朗」。その十朗君だが、祖父や父のようにやはり政治家を目指すのだろうか?「『将来何になりたいの?』と聞くと、HIKAKINの好きな息子の答えは、『YOUTUBER(ユーチューバ―)』でした(笑)」(塚田氏)。やはり今どきの小学生だ。父がそうであったように、十朗君も「政治家・一郎」の背中を見つつ成長することになる。
十朗君が生まれるきっかけ、すなわち妻の志保さんと塚田氏の出会いが興味深い。これを映画か小説にするなら、タイトルはこうなる。「ベッカムを越えた男」。ベッカムとはサッカーの元イングランド代表、あの超大物、デビッド・ベッカムのことだ。
経緯を解説するため、まず塚田一郎氏の略歴を紹介する。塚田氏は学卒後、さくら銀行(現三井住友銀行)に入行。丸の内支店勤務以外は、主に為替業務を担当した。1997年に父が亡くなり、葬儀で帰った新潟を見て、「東京との格差」を痛感したという。そこから銀行を辞め、政治家を志した。
叩いたのは麻生太郎元首相の門。当時は今ほどメジャーでなかった同元首相のもとで、鞄持ち、雑巾がけの修行生活を送った。初出馬は2002年の参議院新潟選挙区の補選だった。だが落選した。2年後も同選挙区から立候補したが、これまた落選。ようやく当選を果たしたのは2007年で、現在2期目。
さて「ベッカムを越えた男」だが、塚田氏が初出馬の年に行われたのが、ビッグスワンも会場になった日韓共催のサッカーワールドカップだ。4月の参院補選で塚田さんを取材していたのが、当時民放のアナウンサーだった村山志保さん。ワールドカップが始まったのは選挙から1カ月後のことだった。
JR新潟駅で、イングランド代表のスーパースター、ベッカムの出待ちをしていた志保さん。ところが改札口から現れたのは、ベッカムならぬ、落選した参院選の候補者、塚田氏だった。この時二人は初めて名刺交換した。そこから交際が始まり、やがて結婚することに…。「ベッカムを待っていたら、イッカムが出てきたんです(笑)」(同)。やや親父ギャグっぽかったが、二人の馴れ初めは以上のよう。塚田氏本人いわく、「これがベッカムに勝った男として、永田町で語り継がれている」とか。
塚田十一郎知事
2回目の東京五輪が来年に迫った。初回の開催は1964年。同年6月に発生したのが新潟地震だった。この時、当時の塚田十一郎知事は、被災者を前に涙を流して頭を下げたという。やはり同じ血が流れているのだろう、塚田一郎さんが拉致問題を語る際、時にその目に涙が浮かぶ。未だ帰らない拉致被害者の一人、横田めぐみさんは新潟市立寄居中学校で塚田さんの一つ下の学年だった。
JAなどの看板や、県産米の袋に「新潟米」と書かれた赤い文字が見える。これは塚田知事が揮ごうしたもの。「当時、国は米の量産化を目指していて、鳥またぎ米(鳥さえも見向きしない米)と揶揄されるほど県産米の食味も評価が低かった。そうしたなか、美味しくない米を大量に作るより、美味しい米づくりを目指そうと大きく舵を切ったのが当時の塚田知事でした。そこで導入したのが、栽培が難しく忌避されがちだったコシヒカリでした」(同)
そしてコシヒカリを中心とする県産米は現在の地位を築くに至った。父の姿を思い出しながら、塚田氏は、「政治は先見性と実行力。決断しなければこうならなった」と語っていた。