堀部安兵衛と縁の深い「長井家の家宝」が新潟市に寄贈される
幕末の志士ゆかりの品々も
赤穂義士である中山安兵衛(堀部安兵衛)と縁の深い新発田藩領牛崎村(現・新潟市南区庄瀬地域牛崎)にあった長井家。同家に代々伝わる家宝の数々が新潟市に寄贈された。27日、新潟市南区の担当者と、庄瀬地域で長井家や安兵衛の研究を行う「大江長井・応庸顕彰会」のメンバーが長井家(現在は埼玉県東松山市にある)を訪れて調印式と家宝の受け取りを行った。受け取った新潟市や顕彰会メンバーは「ありがたい。庄瀬の活性化などにつなげていきたい」と語っていた。
寄贈されたのは、掛軸、古文書、真鍮製の茶釜、木製火鉢、槍、小刀、脇差など21品24点。
・掛軸「神農図」(画=谷文晃、賛=寺門静軒)
・掛軸「菊の図」(画=渡辺崋山、賛=藤田東湖)
・掛軸「鴨」(作者は尊王家として知られた絵師・中林竹洞)
・掛軸「春欄の図」(堀部安兵衛が長井家に伝わる長船「康光」の脇差を持って大石内蔵助に会い、この画で内蔵助の心のうちを確認したという。長井家の秘宝として約200年間門外不出だった画)
・掛軸(吉田松陰の書簡)
・掛軸(新潟の籠手田安定県知事が堀部安兵衛の書簡を見に来た時に持参した書)
・豊臣秀吉からもらった書簡箱(書簡はない)
・牛崎に来るときに槍持ちが持っていた?槍、槍のほさき、槍棒
・古文書(堀部安兵衛研究書、長井長弘 道三 隼人 研究書など)
などだ(下に写真を掲載)。
堀部安兵衛と長井家
27日(調印式の席)の説明によると、「忠臣蔵」元禄赤穂事件で中心的な活躍をした堀部安兵衛(1670年生まれ)の家系は長井家につながる。
長井家の高祖である長井源七郎の娘・瑞雲院は、新発田藩主の溝口秀勝公に嫁ぎ、2人の間に糸が誕生した。糸は溝口四郎兵衛に嫁ぎ、2人の間に、るいが誕生した。るいは新発田藩士・中山彌次右衛門に嫁ぎ、安兵衛が誕生したという(米別の説もあるようだ)。
また、安兵衛は、姉のきんが嫁いだ(牛崎の)長井家のもとで、15歳から江戸へ出府するまでの数年間寄宿し、文武に励んだといわれている。
一方、こちらも27日(調印式の席)の説明によると、(先述の)長井源七郎は、美濃長井氏の斉藤新五郎と同一の人物という。新五郎は6歳の時、斉藤道三の指揮により宴席で殺害された東美濃一の武将・斉藤正義の子。正義の死後、道三の五男として13歳まで育ったという。その後、道三が嫡男に殺害されてすぐ織田信長の側に仕えるようになった。そして上杉と戦った月岡野の戦いでは信長から感謝状を拝領した。
また本能寺の変の時には、二条新御所から親王、公家を、妙覚寺から信長の弟・長益、信忠嫡男の三法師などを脱出させたが、最後は身内の斉藤利三に討たれた。その後、(先述の)娘・瑞雲院は父の位牌を持って、(先述の)溝口秀勝の大聖寺へ向かったという。