新潟県における農民運動や労働運動など社会運動の歴史を後世に伝える「解放運動記念公園」(新潟市中央区)
ふれあい公園、憩いの公園——。公園というと、朗らかな名前の場合が多い。だが、新潟市中央区に「解放運動記念公園」という、こうした名前とは趣を異にする名前の公園がある。
新潟県解放運動戦士を顕彰する会の星野光弘事務局長によると、解放記念公園は1977年10月に革新市政・川上喜八郎新潟市長が誕生したことから、新潟県における農民運動や労働運動など社会運動の歴史を後世に伝えようという人たち(国民救援会新潟県本部など、すぐ下に他の団体名を記載)が、碑の設置場所の提供を市側に打診したのが始まりという。これにより「新潟市解放運動記念公園」がつくられ、公園内に「新潟県解放運動戦士の碑」を建立されたそうだ。
「新潟県解放運動戦士の碑建立」という資料には、設置の経緯がより詳しく記されている。
それによると、当時、社会党、共産党、日農、新潟県解放運動旧友会、国民救援会、県評、地区労の代表が集っている中で、新潟県における農民運動や労働運動など社会運動の歴史を後世に伝えようという意見が出され、その第一歩として新潟市内のどこかに解放記念碑を建てようということで意見が一致したという。
同時に、記念碑の建立を機会に新潟県内でおきた小作争議をはじめ農民運動、労働運動など戦前戦後を通じて闘った成果と、そうした運動に参加しながら志半ばで倒れた故人の戦歴を明らかにして名簿を整理することにした。
これを受け、記念碑を建立するためのカンパ活動に取り組むこととなり、前記の7団体で「新潟県解放運動戦士の碑」建設実行委員会を組織。実行委員会のよびかけに応え、県内外から300人にのぼる学者文化人、社会党、共産党の幹部、各級議員、革新首長、労働組合幹部活動家が賛同しカンパを要請するよびかけ人になった。
この要請に応えて北海道から、県下各地に散在している故入の遺族をはじめ各団体、革新首長から次々とカンパが寄せられ、その額は当時の金額で300万円に達した。
また、そうした活動が進む一方で、顕彰者名簿も集約も進み、最終的には386人の名簿と戦歴が整理され、すでに東京青山の無名戦士の墓(※)におさめられている故人の名簿を加えるとその数は600人にのぼったという。
記念碑建設地は新潟市浜浦町にある市有地の一部を新潟市から借りた。公園の整地は亀田郷建設業協会が一切無料で引き受け、造園会社は庭園造りを行ったという。
こうして整備された公園に碑が建てられ、1977年10月23日、秋晴れのもとで「除幕式」と、社会進歩・平和・民主主義の前進をめざす途上で亡くなった先人たちを顕彰・追悼する「第1回慰霊祭」が執り行われた。なお記念碑の碑石は県西端を流れる姫川から採出されたもので、糸魚川市の県労働組合評議会常任幹事の磯野八郎氏が寄贈した。また碑石に刻まれた新潟県解放運動戦士の碑文は川上市長が揮毫した。
川上市長の好意で借用できた地に整備された、この解放記念公園は、眼下に日本海がひらけ、佐渡が島を眺望する海浜公園の中心部にあり、市民の憩いの場所にもなっていったそうだ。
(※)東京・青山霊園に建つ解放運動無名戦士墓は1935年3月、細井和喜蔵遺志会によって建てられた。細井は、紡績工場で働く女性の過酷な労働実態を告発した「女工哀史」を書いたプロレタリア作家で28歳の若さで亡くなった。細井の死後、遺志会が女工哀史の印税などを元に、細井の遺骨を葬り、併せて社会進歩と革新運動に貢献した人々の「共同の安息地」となるよう無名戦士墓を建て、戦後は国民救援会が譲り受けたという。なお解放運動無名戦士合同追悼会の式典がパリ・コミューン記念日にあたる3月18日に東京で毎年開催されている。
第1回顕彰会からの顕彰者数は1,792名
慰霊祭は毎年秋に開催され、1977年の第1回慰霊祭から1993年の第16回までに、1,240名を顕彰・追悼した。その後、16回を最後に24年間の中断があったが、共産党新潟県委員長(当時)、県評事務局長(当時)、そして星野事務局長の呼びかけで2017年に再開した。「安保法制という名の戦争法、秘密保護法、共謀罪法の強行、さらには憲法9条の明文改憲を狙う安倍政治は許さないという国民的怒りと、市民と野党共闘の前進の中で追悼会運動を再開することができました」と星野事務局長は振り返る。
再開後、2017年から昨年までの4年間で、552名を顕彰・追悼し、第1回からの顕彰者数は1,792名となった。また2018年の追悼会からは、「新潟県解放運動戦士を顕彰する会」が呼びかけて実行委員会方式で実施されるようになり、昨年は、22団体が実行委委員会に参加した。
なお昨年は、10月10日に第20回新潟県解放運動戦士追悼会が開催され、「各団体から推薦があり遺族の承諾が取れた22名」(星野事務局長)が新たに顕彰・追悼された。ただ、コロナ禍での開催となり、参加人数を40名に絞るとともに、恒例の昼食懇談会は中止、また国会議員や予定候補者に首席する代わりにメッセージを依頼し、式典の開催時間も1時間に短縮して開催した。
当日は5名の遺族、共産党、社民党、新社会党、縁の党の各政党、7名の新潟市議、実行委員会参加団体など45名が参加し、5人の衆参議員と3人の衆院予定候補からメッセージが届けられた。
一方、再開後の顕彰活動は進化をしているそうだ。その一つが、前述の通り、実行委員会方式で実施されるようになったことだ。また新潟県内では野党共闘がうまくいっていることもあって、候補予定者も含む国会議員、地方自治体議員の参加も広がっているそうだ。さらに、追悼会はこれまでも宗教色なしで実施してきたが、「合葬」「合祀」などの表現が混在していたことから、昨年から「顕彰し追悼する」との表現に統一したという。
今年も11月頃に「第21回新潟県解放運動戦士追悼会」が開催される予定だ。