鮭の日と村上藩士・青砥武平冶

江戸後期に鮭漁が深刻な事態に直面

村上と鮭の歴史は長い

11月11日は「鮭の日」。「鮭」のつくり部分が「十一十一」に分解できることに由来する。

イヨボヤ――。イヨボヤ会館(村上市)のパンフレットによると、“魚の最たるもの”という言葉だという。この言葉が象徴している通り、村上と鮭の歴史は長い。冬になると、風情ある町屋の軒先に無数の塩引き鮭が長期保存のために吊るされる光景は、新潟県民にとっては馴染みがある。

江戸時代においても、村上と鮭は深いつながりがあり、村上藩にとって鮭は大切な収入源であり、保存食でもあり、中央への珍重な贈答品でもあったそうだ。

だが、江戸後期、鮭漁は年々不漁となり深刻な事態に陥った。300両あった鮭の漁から村上藩に入る「運常金(租税の一種)」はわずか5両に激減したほどだった(イヨボヤ会館のビデオより)。

当時は鮭の生態系が分からず、秋になれば獲れていた鮭がどうして獲れなくなってしまったのか分からず、頭を抱えるしかなかったという。

この窮状を救ったのが、長年鮭を観察し続けてきたという、村上藩士・青砥武平冶(あおとぶへいじ)。300年前の正徳3年(1713年)生まれ。下級武士でありながら農政への献策を行なったほか、測量術の皆伝を活かした河川改修に力を発揮するなど優れた藩士だったそうだ。

村上藩士・青砥武平冶

世界初となる鮭の自然保護増殖

「鮭は川で生まれ海で育ち、またその川に産卵のために戻る回帰性というものがある。鮭を保護し、鮭の産卵の手助けをすれば三面川に鮭を甦らせることができるはず」

鮭の回帰性に着目した青砥は、三面川(本流、支流)に鮭を自然増殖させる方法(三面川の支流を使って、世界初となる自然保護増殖を行うための保護河川「種川」を作る案)を考えて、藩に建議した。

案は村上藩に受け入れられた。そして、1762年、提案する青砥にとっても、前例のない命がけの事業が始まった(その後、工事は31年の歳月を費やした)。

青砥は、まず鮭が産卵するのにふさわしい場所を選定。河川を改修するとともに、そこに柵を作り、鮭を囲い込み、産卵させた。また鮭の子が川を下る季節には、ここでの川漁を一切禁じたという。こうした自然増殖は奏功して、1967年には運上金が約40両まで回復した。

種川

一方、1770年代半ばには、三面川上流の漁師との漁業権争いが発生した。青砥は、ここでも三条代官の経験を生かすなど才能を発揮し、江戸の評定所での裁判勝利をもたらし、村上藩の「種川」を守った(その後は、鮭漁の漁場作りと漁場規制を取り入れた入札制度が完成させることで乱獲の防止などが行われたという)。

そして、1790年前後になると、「種川」は支流一杯に拡張され完成した。運上金も1796年以後は、1000両を越えるようになった(ただ青砥は種川完成を目前に控えながら、それを見ることなく1788年に76歳で没した)。

この「種川の制」による“鮭の利益”は、教育の振興にも大きく貢献した。利益を原資に学校を建設したほか、奨学金制度を創設。そして奨学金で育った人材は、全員が故郷に帰ったわけではないが、「鮭の子」と呼ばれ、様々な分野で活躍したそうだ。

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