「匙屋に徹す」──洋食器を製造して100年以上の老舗、燕物産株式会社(新潟県燕市)
金属加工業が集積している新潟県燕三条地域は、その産業構造の特殊性から、戦中の材料不足、海外との貿易摩擦、プラザ合意に代表される為替の変動など、様々な「時代の荒波」にさらされてきたが、時代に合わせる柔軟性で地場の産業を守り抜いてきた。
この企画では、そうした燕三条のベテラン経営者に逆境の経験談を聞きながら、これからビジネスに立ち向かう社会人、あるいは若手経営者へのヒントを見つけていきたい。
第1回となる今回は、燕市の生産品を代表する「洋食器」を作り続け2021年で110年を迎えた、燕物産株式会社の捧和雄代表取締役社長に話を聞いた。
目次
◎8代目・捧吉右衛門に見たものづくりの原点
◎「燕物産から買うものは無い」
◎国内転換と洋食器へのひたむきな想い
◎「匙屋に徹す」
8代目・捧吉右衛門に見たものづくりの原点
燕物産の創業は1751年、 初代・捧吉右衛門が金物屋を開業したことに始まる。以後、代々金物商を営んできたが、文明開化後の1911年、同社と燕地域の転機が訪れた。西洋文化が日本に広まる中で、東京銀座の輸入商・十一屋商店から8代目・捧吉右衛門(捧社長の祖父にあたる)へ洋食器製作の依頼が舞い込んだのだ。
8代目は、妻の父であった鎚起銅器職人・今井栄蔵とともにこの難題に応え、注文された洋食器36人分を完納。その後、本格的に洋食器製造へ舵を切った。なお、今井氏が創業した「玉栄堂」では、同じく燕市の洋食器生産大手、山崎金属工業株式会社と小林工業株式会社の創業者を輩出しており、正に「洋食器の町」の原点がここにあると言える。
8代目について捧社長は「今でも鮮明に覚えている」と、アメリカとの貿易摩擦のエピソードを紹介する。1950年代、燕市製の洋食器は海外市場、特に欧米で急速にシェアを伸ばしていたが、その中でアメリカの製造業者が輸入規制を申し立て、日米間の貿易摩擦に発展したのだ。
この問題に対し8代目を含む燕市の洋食器生産者は、日本政府関係者とともにホワイトハウスまで輸入制限撤廃の陳情に赴く。捧社長は当時5歳だった。
「町中で総決起大会をした。みんな燕戸隠神社へハチマキをして集まり、幟を立て、祈願をして……。そして東三条駅(当時燕三条駅はまだ存在せず、東三条駅から夜行列車で東京へ向かった)では万歳三唱で陳情団を見送った。その時、子ども心なりにも『こうしてこの業界と産業を守っていくんだ』と思った」(捧社長)
陳情の結果、輸入制限は「自主規制」という形で決着が着く。なお、その際に国内生産の調整のためにできたのが、現在の日本金属洋食器工業組合である。
「燕物産から買うものは無い」
その後、日本の洋食器業界は着実に輸出量を増やしていき、燕物産でも生産の約8割が国外向けとなっていた。その影響もあり、捧社長はニューヨーク大学で経営学修士(MBA)を取得。25歳で燕物産へ就職して、海外を飛び回る生活を送った。
当時は年に2回、2月と8月に、ドイツの見本市へ向かい、さらに大西洋を超え、アメリカ各地を巡り半年分の注文を受けて帰国したという。「これまでに32ヶ国を巡ったが、当時は海外へ行くのが楽しみで仕事をしていた」と捧社長は当時を懐かしんで笑みをこぼす。
しかしある時、輸出市場に大きな変化が訪れる。
「1990年代、ドイツ・フランクフルトの展示会のお客様の元で『もうこれから、燕物産から買うものは無い』と言われた。商談の席にもつかせてもらえなかった。隣には中国人の営業がいて『お前、何しにきたんだ?』という顔。その時の悔しさは、一生忘れられない」(捧社長)。
燕物産がOEMを中心としていた当時、製造元である同社の名前や「燕市製」という情報は表に出なかったため、販売側としては最終的に製品が納品されれば製造元にこだわる必要性はなかった。プラザ合意に代表される為替の変動で日本の輸出力が弱まるなか、格安で仕事を請け負う中国・韓国・台湾の台頭が追い討ちをかけた。
国内転換と洋食器へのひたむきな想い
燕物産の国内転換への挑戦が始まった。それまでのOEM中心の生産から、自社のブランドを前面に出していく方向へ変更。1993年、飲食店関連の見本市へ燕物産の名背負い「メーカー」として打って出た。
安価に製品を作る海外に対し、燕物産には輸出をする中でヨーロッパから学んできた伝統や技術がある。100年近い取引のあった国内のホテルやレストランからは、燕市製の品質へ確かな信頼があった。
とはいえ、会社の方針の転換は一筋縄ではいかない。海外輸出を止めたことにより生産数は減少し、当然売り上げへの影響が出る。外注だった部分を内製化するなど、生産体制の転換にも苦心した。捧社長は、江戸時代から続く金物屋に生まれ、洋食器に携わってきた身としての「『宿命』をやり通せるのか」悩んだ時期もあったという。
しかし「『自分には何ができるのか』を見つめ直した時に、『自分は匙(しゃじ)屋だ』と思い至った。これ以外にできない。何よりも、私自身匙(洋食器)が好きだった。匙を作ること、眺めること、そして買った人が喜ぶことが好きだった。だから、これに徹すると決めた」。捧社長が自問自答の末に見出したのは、洋食器へのひたむきな想いだった。
そしてそれは、職人たちにとっても同じだった。売り先が変わろうと、「良い商品を作る」という根幹は変わらない。
当時のカタログを見ると、「洋」食器ながらも日本食用のデザイン、中国料理用のもの、エスニック料理用のもの、あるいはモダンなデザインまで、食事やシチュエーションに合わせたデザインが並ぶ。食環境プロデューサーの木村ふみ氏へ依頼して、それまでにない多種多様なデザインを用意し、あらゆる店舗に対応できるようにした。
当然、新たなデザインを実現できたのは技術力と開発力の素地があったからこそだ。「職人たちのものづくりの想いが、長い間この業界を支えている」──捧社長はそう断言する。
そして現在、国内で使われる金属製洋食器の約95%が燕市製。燕物産でも、ほぼすべての商品が国内向けに作られている。
「匙屋に徹す」
捧社長は社長に就任した2008年、国内転換に奔走した時期を振り返り「匙屋に徹す」という言葉を経営理念に掲げた。
そして若い経営者と社会人へ向けても、この言葉を伝えたいという。「自分の作っている製品や取り組んでいる事業、あるいは会社が好きで、やり通す喜びがあれば困難はのり越えていける。私にとってはそれが匙だった。若い方々はきっと『多角経営をしたい』と考えるかもしれないし、実際に私もそう思った時期があった。しかし、それぞれにすでに専門の人がいて、新たに参入するということは難しい。だからこそ『自分には何ができるのか』を改めて考えてほしい」。
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燕物産では現在、30代の社員や若い職人たちへの世代交代が進んでいる。また、燕三条を中心に活動するソーシャルデザイン企業・株式会社MGNETの協力により、webサイトやSNSを一新。ブランディングを強化する。
「我々の世代はどうしても、ホテルや飲食店などBtoBの商売を考えてしまう。そのため、弊社の一般的な認知度は低い」(捧社長)。若い世代の力で、今後は家庭にも提案できる展開を目指す。
さらに4年前からは、日本金属洋食器工業組合として「アンビエンテ」に出店。ヨーロッパの洋食器メーカーは現在、アジアへの外注で商品を作っているが、ブランド価値に対して品質が伴わない点が指摘されている。燕市の洋食器が世界を席巻した時代は忘れられてしまったが、金型の展示などを通してまた一歩ずつ「高品質な燕市製」を発信し、同時に「日本独自のデザイン」も開発して再び世界への挑戦を始めている。
「洋食器の町」で最古の歴史を持つ燕物産。世界経済の壁にぶつかりつつも、自社製品への情熱を絶やさず、そして現在は若手にもその想いを受け継ぎ世界へ返り咲こうとしている。「燕の人は、粘り強い」と笑う捧社長は、まさにその言葉を象徴していた。
(文・鈴木琢真)
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