新潟大学の冨澤信明名誉教授による新発田市出身の実業家、大倉喜八郎に関するセミナーが開催される
新潟県新発田市の町おこし団体、写真の町シバタは30日、新潟大学の冨澤信明名誉教授による新発田市出身の実業家、大倉喜八郎に関するセミナーを新発田市の宝光寺と新発田市役所で開催した。
本会場を宝光寺とし、Zoom配信で本会場の様子を新発田市役所1階の大型モニターに中継したほか、Zoomで個人向けにも配信した。全体で約35人が聴衆として参加した。
講演は「大倉喜八郎に関する新たな発見」と題して行われた。
冨澤名誉教授は、「日本初の東京・浅草―上野間の日本初の地下鉄工事と大河津分水(新潟県を流れる信濃川の分水路)については関係がある。大河津分水は大正11年に通水したが、昭和2年に決壊した。その時に大倉喜八郎が創業した大倉組が応急工事をやった。大倉喜八郎はその翌年に亡くなっている。地下鉄が大倉喜八郎の最後の仕事だと思われているが、実は大河津分水が最後の仕事だと思う。このことは、今まで誰も気付かなかった。ちょうど今年が大河津分水の通水から100周年だ。大倉組が関与したことが判明したのが100周年に間に合ってよかった」と語った。
さらに、冨澤名誉教授は、「大倉喜八郎は中国や朝鮮への投資が多く、その結果として財閥は残らなかった。また、銀行を作らかなったものも財閥が残らなかった理由だ。その一方で、仲の良かった渋沢栄一がのちの第一勧業銀行を作って、財閥が残ったのという違いがある」と話した。
一方、冨澤名誉教授は、「1回目に作られた巨大な全身の大倉喜八郎の銅像が戦時中、銃弾に使用するなどのために銅像の首以下を供出した。銅像は昭和31年に再建され、頭部は以前のままで、首と胴は作り直した。また、新発田市出身の武士、堀部安兵衛の銅像も供出される危機があった」と語った。
大倉喜八郎は、江戸末期から昭和初期にかけて財を成した新発田市出身の実業家。現・サッポロビール株式会社や、株式会社帝国ホテル、大成建設株式会社など現代にも残る企業の礎を築いたことで知られている。