【特集】「一大工業都市 燕と三条はどのようにできた?」(上)三条編
三条、古代から連なる歴史の町
新潟県随一の金属加工技術の集積地であり、積極的な海外市場の開拓を行う燕三条地域は、今でこそ日本と世界に知られる工業地帯であるが、そのルーツはどこにあるのだろうか。そして、今後どのように展開していくのだろうか。全2回に渡り、燕と三条、それぞれの地域がどう形成されていったのか、歴史を中心にして見ていこう。
第1回は、三条の歴史についてで、和釘作りや包丁研ぎなどの鍛治仕事が体験ができる、三条鍛治道場の長谷川晴生館長に話を伺った。
「三条市内には数多くの遺跡が出土しており、まだ鉄を加工する技術が生まれる前、旧石器時代の石の鏃なども数多く見つかっています」(長谷川館長)。その言葉が示す通り、現在の三条地域には遥か古代から人の営みが存在していた痕跡が見つかっている。特に、山間部である旧下田地域は、山から鉄が出土、または五十嵐川の侵食により砂鉄が川底に溜まるなどし、そうした素材を元に縄文時代の後期ごろから金属を利用していたようだ。
現在の三条市中心街を含む県央地域一帯から新潟市にかけての広大な範囲は、古代から中世にかけては沼や潟に覆われた広大な湿地帯であり、少数の人々が川の沖積地のような増水を避けられる地点を中心に居住していた。それに対し、三条の山間部は元々陸地であったため、安定して人間が住み着くことができたと考えられる。また、長谷川館長は「川を使ったヒトの移動もあっただろうし、“八木ヶ鼻(三条市旧下田村に位置する高さ200メートルを超える絶壁)”のような一種のランドマークがヒトが集結する上で何らかの影響を与えたのではないかと考えている」と語る。三条は現在の福島県会津地域や、関東地方との交通の要衝であったことも重要なポイントである。陸路以外にも、信濃川や五十嵐川を用いたヒトとモノの行き来は、古代から近代に至るまで非常に強い影響を三条へ与えた。
一方で、新潟県には各地に金属加工や製鉄の痕跡が残っている。今年7月から発掘が行われている燕市の稲葉遺跡でも、製鉄の際に発生する不純物の塊「鉄滓」が発掘されている(「新潟県燕市で平安時代の遺跡調査現場が一般公開」2020年9月12日)。こうした地域は13世紀から14世紀にかけて埋蔵していた鉄鉱が枯渇した、もしくは海路を用いた鉄の輸入を一時的に行っていただけため、後世に受け継がれなかった可能性があるという。
中世鋳物師集団と流通の拠点
15世紀室町時代になると、新潟県内で鋳物の生産が盛んになる。鋳物の生産は主に、頚城、柏崎、三条の3箇所に別れ、お互いの販売地域を侵さないようにしていた。こうした鋳物技術を持つ集団は県外の地域から流入したと考えられる。三条を拠点とした理由としては、前述のように三条地域では鉄が豊富に入手できたことが理由に挙げられる。鉄以外にも、炉を燃やすために必要となる木材資源が近隣の山々から入手でき、水も五十嵐川から確保できるなど、非常に金属加工に整った状況が存在していたのである。
当時三条で製造された鋳物は、五十嵐川や信濃川を用いて現在の福島県や岩手県など、東北地方に多く輸出されたという。福島県会津美里町の法用寺では、現在も三条で作られたとされる室町時代の鐘が使用されている。
こうした鋳物師集団の技術が、後の三条の金属加工へ直接繋がっていったかは定かではない。しかし、人口、材料、流通など地理的な多くの条件から、三条が金属加工の町になる条件が揃っていたことが分かる。
江戸から現代、三条商人の活躍
三条市内、信濃川と五十嵐川の合流地点付近には、かつて「三条城」と呼ばれる城が築かれ、周辺は城下町として栄えたと言われている。しかし、江戸時代に入り1616年、改易により廃城になると、周囲は新田開発により農業が中心になっていく。すると、農具や生活用品を作るために鍛冶屋の存在が重要視されるようになっていった。
また、三条の産業を支えた存在としては「三条商人」の存在も重要だと長谷川館長は語る。信濃川や北前船を用いた三条商人は関東や東北など広い地域に商品を展開していくが、それだけではなく、販売先での要望を聞き、遠方の商品を持ち帰ることで地元の鍛冶屋が新しい商品の開発や需要の情報を掴むきっかけになった。こうした商人の活動は江戸時代後期から本格化し始め、戦後すぐ頃まで伝統が受け継がれていた。
このように、人間の生活と金属加工に恵まれた条件が揃っていた三条地域は、古くから製鉄や鋳物作りが行われ、江戸時代以降の鍛冶屋と商人の協力が現代の産業の源流となっている。そして、明治、大正、昭和をかけてこの三条には多くの金属加工工場が軒を連ねるようになり、戦前戦中は、その技術の集積を買われて三条は軍需品の生産を命じられた。長谷川館長が取締役や相談役を勤めていた「マルト長谷川工作所」でも、高射砲などを製作していたという。
隣なのに遠い町、燕
三条で古くから育まれてきた金属加工の血筋は、現在でもこの地で受け継がれている。戦後から現在にかけてはニッパーなどの作業工具、自動車関係の部品、包丁などの打ち刃物が三条の工業の中心をなしており、さらに、金属加工の技術を生かして樹脂加工への進出も行われた。「三条」とひとまとめにされることは多いが、その内側は江戸時代の鍛治から様々に別れていった、多様な専門技術と会社の集合体なのである。
また長谷川館長は県央のもう一つの工業地帯、燕にも言及した。「地域全体の工業出荷額で言えば、現在は三条よりも燕の方が大きい。三条の主力は鉄の加工である一方、燕はステンレスや銅の素材に長けた企業が集まっており、こうした商品は付加価値も単価も高いことが理由。また、燕は絞り加工により鍋や食器などのキッチンツールを多く生産していることも特徴の一つ。最近は“燕三条”として売り出すことが多いが、二つの地域が生産している商品の重複は案外少ない」(長谷川館長)。長谷川館長が幼少の頃は、信濃川の川幅は現在よりも広く、川向こうに見える燕の町はおぼろげで、今よりもずっと遠く見えたという。「ただ一方で、燕と三条の企業の間で交流や協力が増えていることも事実。合併などによって二つの地域が完全に一つになってしまうことはないと思うが、むしろ違うからこそ互いにうまくやっていけるのではないでしょうか」。二つの地域は、地理的に近いようで遠く、差異があるからこそ協力できる。そう長谷川館長は話を締めくくった。
第2回は、燕市の歴史を紹介する。(文:鈴木琢真)
【追記 2020年10月5日】「【特集】「一大工業都市 燕と三条はどのようにできた?」(下)燕編」を掲載しました。
【関連リンク】
三条鍛治道場 公式webサイト
https://kajidojo.com/
株式会社マルト長谷川工作所 公式webサイト
https://www.keiba-tool.com/