白井裕一のコラム「渚にて」 第二回 菅政権発足について、『派閥』と『閨閥(けいばつ)』(上)
(以下本文、敬称略)
令和2年9月16日に前内閣官房長官であった菅義偉が第99代の内閣総理大臣に成った。
新内閣発足から一週間も経つと、この結果は「当然の帰結」のように思えてしまう。
だが、年初の頃はどうであったろうか?
安倍晋三内閣に「死角」は見えなかった。
7月には東京オリンピックが開催され、秋口には、衆議院の解散総選挙が噂されていた。
来年9月の自民党総裁の任期までは安倍政権が継続し、場合によっては次の自民党総裁選挙にも立候補して「4選」も有り得る、とも思われた。
だが、中国の武漢市から発生した新型コロナウィルスの感染蔓延は、瞬く間に国境を越えて周辺地域に広がり始めた。
そして、かつてのSRASのように、東アジア周辺で「封じ込める」ことは出来ず、全世界に感染は広がった。
最早、東京オリンピックどころではなくなってしまった。
一方、昨年の令和元年の秋以降、菅官房長官は政治的に存在感が薄らいでいた。
昨年7月の参議院選挙後の内閣改造で、菅官房長官と親しい議員(菅原一秀経済産業大臣、河井克行法務大臣)が閣僚に起用されたのだが、醜聞が露呈して相次いで辞任に追い込まれた。
「何となく」菅官房長官は「精彩を欠く」様相を呈してきたのである。
外部からは見えなかったのだが、首相官邸からの指揮命令系統から菅官房長官が「遠避けられる」感じになっているようであった。
だが、横浜港に接岸された豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号の船内「新型コロナ感染蔓延」対策や、いわゆる「アベノマスク」発送などの醜態から、菅官房長官の「存在感」が復活して来た。
一時は、「内閣官房長官を辞任するのでは」と噂されていたのにもかかわらず、である。
そして、安倍晋三の体内で、「持病」が急激に悪化し、約7年8か月という長期政権の終幕は、予想だにしなかった呆気ないかたちで到来した。
安倍晋三にとって、「ポスト安倍」は岸田文雄であった、とされる。
第二次安倍内閣発足から外務大臣として入閣し、副総理兼財務大臣の麻生太郎と共に安倍総理を支え続けた。
開成高校、早稲田大学法学部、日本長期信用銀行と進み、元通産官僚であった実父、岸田文武衆議院議員の秘書、という経歴。
「エリート」と呼んでも遜色ない人物であろう。
また、はったりや胡散臭さはない、どこか不器用な点も人間的な魅力になったのであろう。
だが、「将来の自民党総裁候補」と言われながらも、なかなか総裁選挙に出馬をしなかった。
昨年9月の自民党総裁選挙も、結局は出馬を断念してしまった。
真偽のほどは確かではないが、安倍総理に会いに行って「自分はいったいどうしたら良いのでしょうか?」とベソをかいてしまった、とも。
(そのエピソードを新聞記事に書かれていたのを自分は記憶している。ただし、朝日だったか産経だったか忘れてしまった。)
この「育ち」と「人柄」の良さに、安倍総理は「ポスト安倍」の筆頭候補にしようと内心思ったのかもしれない。
だが、菅官房長官の目には、「線が細くて頼りない」と映ったのであろう。
安倍総理の「次期岸田総理」案に反対した、らしい。
結局、安倍総理が辞任表明をした際、記者会見で明瞭な「後継指名」をしなかった。
誰が次の総理に望ましい、という個人名を言わなかった。
これは、岸田文雄にとっては誤算であったろう。
しかし、今回の自民党総裁選挙に「不出馬」という選択肢は、もはや有り得なかった。
嵐に成ろうが、凪に成ろうが、とにかく船出をしなければ「戦えない意気地なし」と決め付けられてしまう。
だが、その後の菅官房長官出馬の「流れ」は想定外であった。
そもそも今回の自民党総裁選挙の内実は、「ポスト安倍」を問うものではなかったのである。
現状の「安倍政権」の「政治構造」を維持・継続させることが求められたのである。
ならば、「安倍政権」の「政治構造」とは何か?
よく「安倍1強」と呼ばれるが、それは「アベ政治を許さない」と叫ぶアンチ安倍政権が認識している「かたち」である。
実際は、安倍前総理とその周辺が突出して勢力が強大であるわけではない。
安倍前総理の出身派閥である「細田派」(清和政策研究会)は、国会議員・衆参合わせて98名である。
麻生太郎の「麻生派」(志公会)が56名、
「竹下派」(平成研究会)が54名、
二階幹事長の「二階派」(志帥会)が47名、
「岸田派」(宏池会)が47名、
「石破派」(水月会)が19名、
石原伸晃の「石原派」(近未来政治研究会)が11名、である。
かつての田中角栄の「田中派」(木曜クラブ)は、なんと141名もいた。
勿論、議員定数も選挙区制度も全く違うので、同じように比較は出来ないのである。
が、しかし、第二派閥と第三派閥を合わせれば細田派を越えてしまう。
それこそ合従連衡してしまえば、細田派を抑え込めることも可能である。
だが、そうはならなかった。
その理由は、安倍政権は、主要な派閥を「取り込んだ」連合政権であったことである。
まず、副総理兼財務大臣という、内閣のナンバー2に麻生太郎を据えた。
岸田文雄を外務大臣として取り込み、石破茂でさえ、かつては自民党幹事長にして味方につけた。
現在では、石破茂は「党内野党」的な「アンチ安倍」の立ち位置に成ってしまったのだが、それは、安倍政権が石破茂を敵に追いやったというよりも、石破茂の方から後ろ脚で砂をかけて出て行ったような感じさえする。
これは、自分から見ると石破茂の大いなる「勘違い」であって、多分、安倍総理との違いを際立たせることによって、むしろ「ポスト安倍」を掴める、と考えたのであろう。
確かに、安倍政権が1,2年で退陣に追い込まれるようであるならば、その「読み」は成功したのであろう。
だが、第二次安倍内閣は、細田派、麻生派、岸田派に加えて竹下派と二階派まで取り込んでしまい、事実上、「総主流派」体制を構築してしまったのである。
竹下派は、衆議院サイドの額賀福志郎が派閥のリーダーとしてピリッとしなかった。
一方、現在の菅政権の内閣官房長官の加藤勝信、外務大臣の茂木敏充が安倍前総理に近かく、また参議院サイドでは参院幹事長だった故・吉田博美が山口県出身ということも有って安倍シンパだった。
さらに、小渕恵三元総理の娘である小渕優子が政治資金規制法違反でつまずいたことから、竹下派として安倍政権に対抗出来る状況に無かった、ということもあると思う。
令和2年8月中旬の段階で、安倍政権の政治構造はどのようなものであったか、と言えば、麻生太郎・二階俊博・菅義偉の3人の政治的キーマンによる「トロイカ体制」であった、と思う。
麻生太郎は、池田勇人元総理から始まる池田派・宏池会の流れを汲み、さらに三木武夫元総理・国民協同党から始まる三木派・河本派・高村派と合流して第二派閥にまで数を増やした。
二階俊博は、小沢一郎と共に新生党・新進党・自由党と与野党を経験し、小沢一郎と袂を分かった後は保守党・保守新党として自民党・公明党との連立政権を経験した。
或る面、「田中角栄の薫陶」を受けた最後の世代の政治家であろうし、与野党の人間模様を遊泳していたことから公明党ともパイプが有る。
政治家としての能力と経験は、やはり無視出来ない。
さらに、中曽根康弘元総理の派閥の流れのうち、村上正邦・江藤隆美・亀井静香といった亀井派の流れ、伊吹文明の伊吹派と合流して派閥を大きくしたのである。
かつての中曽根派と言えば、自民党の中でも「右」とされてきた訳である。
保守系の「日本会議」とも密接な自民党の議員が「二階派」というと、奇異な感じを持つ人もいるようであるが、或る面、二階俊博が伊吹派に「押し掛け女房」に成ったかたちであろう。
現に、「二階派」と呼ばれながらも「志帥会」は、会長職が「空席」に成っている。
さらに、二階幹事長は、各選挙で着実に勝利をしている。
2016年の新潟県知事選挙の際、自民・公明の両党の他に、労働組合の連合新潟まで支援を受けながら惜敗してしまったのだが、2018年の新潟県知事選挙においては二階派の国会議員の秘書たちを選挙支援で送り込むなど徹底的にテコ入れして推薦候補の当選をもぎ取った。
自民党幹事長として、明瞭な勝利を勝ち得た実績は、やはり無視出来ない。
派閥の歴史
さて、現在、総理に成った菅義偉である。
彼は「無派閥」である。
だが、令和2年9月2日に自民党総裁選挙に出馬を正式表明した後、まず、二階幹事長の二階派が支持を表明し、麻生・細田・竹下の三派もこれに続いた。
そして、かねてから個人的に面倒見ていた「無派閥」の議員グループや石原派まで支持を打ち出し、党内のほとんどを固めてしまった。
「ポスト安倍」と気負っていた岸田文雄と石破茂は、事実上、「身内」だけしか支持してもらえなくなってしまったのである。
あとは、かつての小泉純一郎が2001年4月の自民党総裁選挙で地滑り的な勝利を得たように、全国の自民党員の圧倒的多数の支持がなければ、この劣勢をひっくり返すことは不可能であった。
この状況を朝日新聞などの「アベ政治を許さない」マスコミたちは、「無派閥と言いながら、各派閥に担がれて、派閥に逆らえない菅」とあげつらった。
だが、菅義偉は、いわゆる「派閥嫌い」の「無派閥」議員とは、様相が異なる。
法政大学を卒業し、警備会社に就職。
1975年に政治家を志して横浜市の小此木彦三郎衆議院議員の秘書になる。
1987年に横浜市議会議員に当選し、1996年に衆議院議員選挙で当選する。
小此木彦三郎は中曽根派・渡辺派であったが、彼は小渕派(竹下派)に入る。
1998年の自民党総裁選挙で、派閥の長である小渕恵三が立候補したが、同じ派閥の梶山静六も出馬。
菅は梶山を「政治の師」と尊敬していたことから、梶山支援を行い、結果として小渕派から飛び出すかたちになった。
それから、宏池会(当時は加藤紘一派)に入るが、小渕総理急逝後の森喜朗内閣の際に、加藤紘一が「加藤の乱」を起こすが、野中広務などに抑え込まれて不発。
野中広務と昵懇だった古賀誠らは堀内光雄(富士急行オーナー)を担いで宏池会を分裂させる。
菅は古賀誠と共に堀内派に入る。
2007年の自民党総裁選では、宏池会としては福田康夫支持であったが、麻生太郎支持の推薦人に名を連ねる。
2008年に麻生太郎総裁に変わると、古賀誠が自民党の選挙対策委員長に就任。
古賀は菅を副委員長に抜擢する。
2009年7月に東京都議会選挙で都議会自民党が惨敗すると、古賀は責任を取って選挙対策委員長を辞任。
直後の衆議院議員選挙を、菅は選挙対策委員長代理として指揮を執った。
2009年9月に民主党政権が誕生し、菅はこれを期に宏池会を退会し、「無派閥」となる。
このように見てくると、菅義偉という政治家は、「派閥に所属する」ということを絶対的にとらえていないように感じられる。
何も「派閥」を否定したり、軽視する訳ではないのだが、「派閥」の中の立ち位置やポストにこだわるのではなく、その時その時の政治状況の人間関係の中で明確な政治的な実績を上げることで、むしろ「派閥」からその実力を認めてもらえるようになることを意識してきたように自分は感じられる。
それは政治的な実務能力に対して確固たる自負が無ければ踏み出せないことであろう。
実際に、古賀誠に見出され、また、古賀誠と相性が合わない安倍晋三の二度目の自民党総裁選挙挑戦を後押しして内閣官房長官を任せられた訳である。
かつて田中角栄は総理大臣に成るための条件として、こう言ったという。
「党三役(党幹事長、総務会長、政調会長)のうち幹事長を含む二つと、蔵相(現財務相)、外相、通産相(現経産相)のうち二つ」。
これは、組閣人事が「派閥」からの推薦順送りであった古い時代の「条件」である。
だが、竹下内閣がリクルート事件で退陣した後、宇野宗佑、海部俊樹と続いた総理は、この田中角栄の「総理の条件」を満たさないでも成ることが出来るようになった。
かつて、「派閥」は自民党という政党の原動力でもあった。
戦前の政友会、民政党の二大政党は、戦時体制の大政翼賛会に統合され、戦後は、鳩山一郎の自由党、民主党、進歩党などがその流れを引き継いだ。
だが、鳩山一郎は「公職追放」され、吉田茂が総理になると保守系の各党が分立して相争う状況となった。
その間に、片山哲の社会党の連立政権が樹立されるなど、左翼政権が日本に誕生する可能性は非常に強かった。
やはり、戦犯として巣鴨プリズンに収監されていた岸信介も「公職追放解除」後、1952年に「日本再建連盟」を設立。
翌1953年には日本社会党に入党しようとするが果たせず、自由党へ入党した。
つまり、1955年までは、左右各党派は入り乱れ、互いに骨肉相食むような混沌状態であったのである。
だが、1955年に、三木武吉をはじめとして「日本を社会主義国家にしてはいけない」という大前提から保守系各党派を集結させて「保守合同」自由民主党の結党に到達する。
自民党には、様々な経緯を持った政治家が集結し、「派閥」を形成した。
「派閥」は「党内党」とも言えるのであるが、政策や理念によって形成される、というよりも人間関係や選挙区事情によって形成される面も無視出来なかった。
それゆえに、人間同士の好き嫌い、感情のもつれなども大いに左右されるものであって、「派閥」をセクト(党派)とみなされるかどうかが問われた。
だが、読売新聞の記者・渡辺恒雄(現・読売新聞社代表取締役主筆)が「派閥(保守党の解剖)」という著書を出した。Amazonの復刊の説明によると、
「派閥は、そのマイナス面ばかりが批判されるが、独裁的な指導者による全体主義化を予防するための健全な勢力均衡を保障する安全弁でもある。
この観点に立って、戦後保守党の派閥のあり方を政治資金、選挙区制、官僚との関係などから多角的に分析するとともに、離合集散を繰り返す派閥の内実を第一線の政治記者ならではのきめ細かな観察眼で描き出す。
現在の政治を分析する上でなお有効な理論の書であり、戦後政治史の第一級の資料としても変わらぬ輝きを放っている。」
とある。
また、派閥は新人議員を教育する機関でもあり、秘書団などの実務部隊を組織し、役職をあっせんする機関でもあり、選挙資金などを融通してくれるところでもある。
だから、派閥がどんどん形骸化して希薄化していくにつれて、国会議員それ自体の能力の劣化が見られる傾向も出てきたのである。
なお、派閥は何も自民党の専売特許ではなく、野党にも存在する。
ただ、野党は、政策や政治理論でもって派閥が形成される(という建前)であることから、かえって折り合いをつけることが出来なくなってしまった。
かつての日本社会党の最大派閥は社会主義協会であり、九州大学のマルクス経済学者・向坂逸郎が理論的指導者であった。
この社会主義協会と激しく対立したことにより、書記長や副委員長を歴任した江田三郎(江田五月の実父)は社会党に居られなくなって、離党後に急逝する。
また、ソビエト共産党と中国共産党との対立が持ち込まれて社会党内に摩擦が生じるなど、野党内の派閥は党内求心力ではなく、むしろ遠心力ばかりが働き、ますます政権獲得から逆行するかたちとなった。
また、左翼セクト(党派)には、「党の指導者は政治理論家でなくてはならない」という「思い込み」が存在している。
そのため、政治的実務能力が長けていても学歴が低い場合は、まず、党のトップには成れない。
ただ、その「思い込み」をひっくり返した「例外」が2人だけ存在する。
ヨシフ・スターリンと毛沢東である。
それ以外は、マルクスやレーニンの「党の指導者は政治的理論家でなくてはならない」という「思い込み」に毒されており、特に日本の左翼はそうである。
自分は個人的に野中広務という政治家を注目していて、彼は本来は日本社会党の指導者に成り得た政治家だった、と思う。
だが、野中広務は自民党の政治家に成り、総理大臣に成る寸前まで駒を進めたのである。
自分は、そこらへんに日本の野党、もしくは左翼政治運動の限界を感じ取ってしまうのである。
(下に続く)