白井裕一のコラム「渚にて」 第二回 菅政権発足について、『派閥』と『閨閥(けいばつ)』(下)
(上から続く)
だいぶ話題が横道にそれてしまい申し訳ない。
菅義偉は、「無派閥」という。
だが、「派閥」の政治的な機能や強靭さ、そして脆さも知悉している。
そして、自分の立ち位置と性分などをよくよく吟味した上で、「派閥」の中での上昇を目指さず、「派閥」を横断し、もしくは超越したかたちで自らの存在感を増大させる道を選んだ。
だから、同じ「無派閥」と言っても、小池百合子とは違うのである。
組織や党派の中で実務を的確に行い、明瞭な政治的実績を上げていく、
そこに菅義偉の凄味が有る。
なお、いわゆる「無派閥」の議員グループというものが存在する。
しかし、「無派閥」で議員グループというのは、言語表現としては何とも珍妙な感じがする。
さながら「丸い三角」といったような。
人間は寄り集まり、ある一定の方向性を帯びて来たならば、それは「徒党を組む」ということであり、「派閥」ということに成りはしまいか?
多分、従来の硬質化した「派閥」と比較すると「緩さ」が見られることから、「無派閥」の「議員グループ」という表記になるのであろう。
さて、「派閥」の他に、閥というと「学閥」「財閥」「門閥」という言葉が思い起こされる。
だが、「閨閥(けいばつ)」という言葉は、現在、あまり馴染みが薄いであろう。
「閨閥」とは、Wikipediaによると、
「閨閥(けいばつ)とは、外戚(妻方の親類)を中心に形成された血縁や婚姻に基づく親族関係、又はそれから成す勢力、共同体、仲間などを指す。
もともとは中国語で「閨」の意味は夜、寝るための部屋のこと。
婚姻は政略結婚も含み、政界、財界、官界さらには王室、貴族に属す一族が自身や血族の影響力の保持および増大を目的に、婚姻関係を用いて構築したネットワークを門閥(もんばつ)と呼ぶこともある」。
実は、日本の国家・社会の上層部は大きな一つの親戚関係にあるような感じなのである。発刊された時期はだいぶ古いのであるが、そのものスバリの「閨閥~特権階級の盛衰の系譜~」(角川書店、2002年)という本が有る。
著者は神一行で、別に岬龍一郎名義でも執筆活動をされている。
この「閨閥」という著書を読むと、どれだけ大物政治家が財界人や皇族や旧華族と呼ばれた人々と姻戚関係に有るのかが解る。
また、いわゆる「エスタブリッシュメント」とされる「上流階級社会」に「参入」するには、
高級官僚(国家公務員の上級職)に成るか、
起業して財産を築くか、
政治家として大成するか、
そのいずれかである。
「エスタブリッシュメント」の内部の人間は、やはり同じ「育ちの良い」人々に対して親近感が有るのであろう。
自分が日本の「エスタブリッシュメント」を感じたのは、故・鳩山邦夫であった。
彼は東大法学部を首席で卒業し、田中角栄の下で「修行」を積む。
地盤は鳩山一郎元総理の東京都の文京区(本郷、小石川)、台東区(浅草、上野)、中央区(日本橋、銀座、築地)などの旧東京8区。
台東区議、都議からの叩き上げの深谷隆司と同じ保守同士で壮絶な選挙戦で火花を散らした。
だが、実兄の鳩山由紀夫が新党さきがけ、民主党を結成するところから迷走しはじめる。
まず、平成11年東京都知事選挙に出馬するが石原慎太郎に圧倒されてしまう。
曾祖父以来の地盤を中山義活に預けるが、民主党を離党したため、戻って来ない。
それこそ、鳩山邦夫は総理に成っても不思議ではない、能力と血筋の政治家であったのだが天は彼に微笑んではくれなかった。
東京から選挙が出られなくなったため、母の実家、石橋家(ブリジストンのオーナー)の地元、福岡県から出馬。。
福岡県に選挙区を移してから2回当選した。
残念ながら平成28年に67歳で急逝されてしまい、総理に成ることはなかった。
しかし、いくら能力に秀でて、人柄が愛されても、普通だったら政治生命が絶たれてしまう。
やはり、日本の保守政治家の名門「鳩山家」という存在が有ったからだと感じる。
「閨閥」というと、岸信介、佐藤栄作、安倍晋太郎といった総理大臣や重要閣僚を輩出した名門が思い浮かぶ。
安倍晋三は、まさに「閨閥」を背景とした政治家である。
また、麻生太郎も祖父が吉田茂元総理であり、実妹は三笠宮家の寛仁親王殿下と結ばれた信子さまである。
また、彼の妻・千賀子は鈴木善幸元総理の三女である。
さらに、安倍晋三とも遠縁にあたる。
岸田文雄も石破茂も、国会議員、県知事の息子である。
岸田文雄のいとこは宮澤洋一元経済産業大臣。宮澤洋一は宮澤喜一元総理の甥である。
また、財務官僚の可部哲生国税庁長官は義理の弟にあたる。
石破茂の母方の祖父、金森太郎は財務官僚であり、石破家は鳥取県では名士の一族であった。
一方、菅義偉の実父、菅和三郎は満州鉄道の職員であり、戦後、イチゴ農家となったが雄勝町議や組合長などを歴任。
「地方の名士」と言えるであろうが、「閨閥」とまでは言えない。
なお、二階俊博自民党幹事長の実父、二階俊太郎は紀伊民報社の新聞記者、和歌山県議、稲原村長、御坊造船社長であったから「地方の名士」とは言えるが、やはり「閨閥」とは程遠い。
こう見てくると、菅義偉と二階俊博は、地方出身の国会議員秘書、地方議員出身の「叩き上げ」という共通する経歴が見られた。
ひょっとすると、お互いの人生の軌跡に於いて重なり合う点が多いことからも、いつしか相通じるところが生まれたのかもしれない。
話しは最初に戻るのだが、菅義偉が安倍晋三の次に総理・総裁に選ばれたのは「安倍1強」体制を維持・継続させるためのものであった、と自分は考える。
何故、「安倍1強」体制を維持・継続したい、と考えたのか?と言えば、「選挙に強い」からである。
第二次安倍内閣は2012年12月16日の第46回衆議院議員選挙で勝利し、政権を奪還して以降、
2013年7月21日、第23回参議院議員通常選挙
2014年12月14日、第47回衆議院議員選挙
2016年7月10日、第24回参議院議員通常選挙
2017年10月22日、第48回衆議院議員選挙
2019年7月21日、第25回参議院議員通常選挙
衆参合わせて計6回の国政選挙で勝利し続けたのである。
ここまで国政選挙で勝ち続けることが出来た総理・総裁は稀有であろう。
勿論、選挙は相対的な勝利であって、対抗する野党があまりに駄目過ぎた、という「敵失」の要因が有った。
とはいえ、安倍総理の下で選挙を戦えば「負けない」というのは、支持するには充分な理由であろう。
この安倍総理の下での選挙で「負けない」というのは、国民の支持が下がらなかったということであり、それは、国民の生活に一番密接な経済政策をしっかりと実行して来たということが言えるであろう。
わずか一年で退陣した第一次安倍内閣は、「教育基本法改正」といった、安倍総理の政治的理念を最優先するかたちであったが、自民党内から足を引っ張る反対派が多数存在し、また、朝日新聞をはじめとするマスコミの批判もはるかに手厳しく、国民もその論調に引き摺られてしまう傾向が強かった。
だが、第二次安倍内閣では、極力、党内で敵を作らないように腐心をし、「アベノミクス」と呼ばれる経済政策を第一に実施して国民の支持を固めていった。
また、スマートフォンの普及が格段に進み、報道ニュースは宅配の紙媒体の新聞や地上波のテレビ番組の影響力が相対的に下がりはじめた。
インターネットでのブログやホームページでの保守派の言論活動は、ソーシャルネットワークシステム(Twitterやフェイスブックなど)に表現方法が変化していったが新聞やテレビの報道を相対化させるかたちとして無視出来ない存在に成って来ている。
よく、首相官邸によるマスコミの対策が功を奏して、いわばマスコミの国家権力に対する監視する「仕事」が骨抜きに成って来ている、という指摘が有る。
だが、それは新聞やテレビなどの既存のマスコミ自身に対する誹謗中傷であろう。
内閣官房の「工作費」でもって論調が操作され、篭絡されてしまっている、とするならば、それはマスコミ、ジャーナリズム自体の頽廃であり、堕落であろう。
確かに権力に迎合するようであるのならば、それは政府広報であり、権力側のプロパガンダと言えよう。
だが、マスコミ、ジャーナリズムの頽廃、堕落は、
「反権力であるならば、虚偽であっても許される」
「反権力であるならば、表現の自由や人権侵害でさえも正当化される」
といった点にも有るのではないだろうか?
目的のためならば、あらゆる手段も正当化される、というのは権力であれ、反権力であれ、あまりに短絡的で乱暴な思考であろう。
第二次安倍内閣は、「アベ政治を許さない」と批判するほど強権的とは言えなかった、と思う。
勿論、「桜を見る会」などで露呈した、慢心や驕慢な点は見られた。
だが、結局、第二次安倍内閣は、安倍総理ご自身の体調不良による自発的な辞任によって終わった。
政治的な批判に耐え切れなくなって退陣した訳ではないのである。
むしろ、第二次安倍内閣それ自体への国民の支持は下がっていない。
だから、第二次安倍内閣は政治的に終結した訳ではないのだ。
この点を、「アベ政治を許さない」という方々は真摯に受け止められた方が良いだろう。
では、何故、安倍晋三は岸田文雄を次の総理・総裁にすることを翻意したのであろうか?
やはり、それは二階幹事長の存在であろう。
岸田文雄を総理・総裁にし、菅義偉を内閣官房長官に留任させるか、自民党幹事長に横滑りさせることは、安倍晋三が菅に因果を含めれば呑んでくれたかもしれない。
だが、二階幹事長のまま岸田総理・総裁、ということになれば、二階・菅の「叩き上げ」コンビに主導権を握られてしまう、と感じたのではないだろうか?
また、「トロイカ」の一人、麻生太郎は、宮澤喜一の頃の宏池会までさかのぼる、河野洋平と加藤紘一との間で分裂した「大宏池会」を、麻生派と岸田派を合流させることで実現させようと考えた。
そうすれば、単純計算で計103名の第一派閥となり、98名の細田派を凌駕出来る、と。
だが、岸田派の派閥としての実権は、既に議員を引退した古賀誠が今だに掌握している。
古賀誠は、麻生太郎と同じ福岡県であるが、事あるごとに対立し、2019年4月7日の福岡県知事選挙では、麻生太郎が推す新人の武内和久(元・厚生労働省官僚)が自民党福岡県連の推薦を得て出馬したのだが、現職の小川洋に大差で負けた。
武内には公明党が自主投票を決めるなど、事実上の保守分裂選挙となり、結果として麻生太郎は恥をかく結果になってしまった。
なお、この福岡県知事選挙にさかのぼる、2016年10月3日の鳩山邦夫急逝による衆議院福岡6区の補欠選挙に、次男の鳩山二郎大川市長が立候補を表明。
自民党福岡県連会長の蔵内勇夫の息子、蔵内謙も立候補を表明。
自民党本部の二階幹事長は、二人とも自民党公認を出さずに、「当選者に追加公認を出す」という決定を下した。
「実力で当選を勝ち取ってこい」ということであった。
結局、麻生・蔵内対非麻生・鳩山(二階)、という保守分裂選挙となったが鳩山二郎の圧勝の結果に終わった。
選挙後、鳩山二郎は自民党入りし、二階派に所属した。
さらに、故・田中六助自民党幹事長の甥の武田良太衆議院議員が無派閥だったのが二階派に入った。
福岡県内に於いて、麻生太郎に対して古賀誠、二階俊博らが包囲している様相を呈し、彼自身も既に80歳に成っており、そろそろ長男に引き継がせたい、という動きが有るという。
岸田文雄を担ごうと考えても、古賀誠や二階俊博との微妙な関係を考慮したところ、踏み切ることが出来なかったのであろう。
菅義偉を担げば、事実上、安倍晋三がいない「麻生・二階・菅」のトロイカ体制が維持・継続されることになる。
菅義偉は、敢えて「無派閥」という、自民党総裁選挙に於いて不利な状況を設定した。
だが、その「無派閥」という「弱点」ゆえに、主要派閥の全てが彼の擁立に雪崩を打った。
この「無派閥」で自民党総裁選挙に勝利する、というのは、かつて石破茂が目指した手法であった。
だが、結局、彼は「無派閥」のままでは我慢出来ずに、「石破グループ」を「石破派」(水月会)に派閥化してしまった。
それゆえに、明確な「派閥」のメンバーを手にすることが出来たのだが、それ以上の広がりが望めなくなってしまった。
一方の菅義偉は、「無派閥」の議員グループを個別に支援し、緩やかなかたちでありながら議員一人一人を一本釣りするようにして、自分を支持してくれる国会議員を増やしていったのである。
地味であるが手堅い手法。
それが新総理・菅義偉の手法なのだろう。
だが、それぞれの思惑がうごめく各派閥に担がれながら、閨閥という姻戚関係の裏付けも無い状態でどれだけ政治力を発揮し、政治的成果を上げることが出来るであろうか?
ただ、弱点はしっかりと認識して対策を講じておれば弱点のままには終わらない。
むしろ、強味と慢心して油断してしまうとかえって足元をすくわれてしまう。
酷暑の夏が終わり、新型コロナウィルスだけではなく、インフルエンザや風邪が蔓延する冬に向かって季節が移っている。
米中の超大国同士の対立、朝鮮半島情勢など国際情勢は予断を許さない。
これから菅内閣は、文字通り、日本という国家と社会にとって正念場を迎える。
勿論、菅内閣だけでは、この国難は乗り越えられない。
我々国民一人一人も、性根を据えて何事に対しても真剣に取り組まなくてはならない。
奇しくも、菅総理は「自助」と云った。
この意は、いざとなったら政府や政治が国民を切り捨てる、とだけ理解してはいけない。
むしろ、時の政権があまりに怠惰で堕落していたなら、国民の手によって打倒されても当然である、と覚悟するべきである。
政治家と国民は、良好な「緊張関係」であるべきである。