白井裕一のコラム「渚にて」 第二回 「正統と異端(立川談志の場合)」

(文中敬称略)
立川談志である。
テレビを何気なく見ていたら、立川談志の弟子である立川志らくが映っていた。
どこか、はにかんでバツが悪そうにしているのは、多分、照れ隠しなのだろうが、そこらへんは亡き師匠譲りであろう。
だが、立川談志に比べれば「薄味」に見える。
いや、批判でも悪口でもなくて、立川談志が「酷過ぎた」のである。
何と云うか「危険な匂い」が画面越しから見て取れるような、そういう鋭さが有った。
立川談志という人は、まぎれもなく「天才」であって、「異常」な人であった。
しかし、談志は2011年11月21日に死んでしまったから、今ではかれこれ9年近くも経過してしまった。
その間に、ラジオやテレビで息が合っていた月の家円鏡(橘家圓蔵)は死んでしまった。
ケーシー高峰も死んでしまったし、あとは毒蝮三太夫がかろうじて存命中である。
よく「10年ひと昔」と言ったものであったが、昨今は時代の流れがどんどん加速している。
1年前はおろか、3か月前の話題でさえ、みんな忘れている。
幸い、談志の弟子である、立川志の輔、立川談春など立川流の落語家が活躍している。
だから、「志の輔の師匠」「談春の師匠」といった関係性でもって、語り継がれている。
しかし、自分なんぞは、正直言って寂しい限り。
もっと、あの剣呑なギラギラしたような才能の冴えを思い出したいのである。

立川談志というと、「異端児」と呼ばれる。
確かに、東京の落語界の団体である「落語協会」を飛び出して、自分の一門だけの「落語立川流」を立ち上げて「家元」を名乗った。
それ以前にも、「人間の條件」などを出版した三一書房から1965年に「現代落語論」を出版。
続いて「あなたも落語家になれる」など、落語に関して理論的に真摯に考察してきた。
また、いち早くテレビ番組への進出を企画し、いわゆる「寄席中継」というかたちではなく、落語(噺)よりも低く見られていた「大喜利」を持ってくる「笑点」を生んだ。
ちなみに「笑点」とは、1963年に朝日新聞が大阪本社創刊85周年、東京本社創刊75周年を記念した懸賞小説、三浦綾子の処女作「氷点」のパロディ。
「氷点」は、当時として破格の1000万円の賞金という話題性と、ドラマチックなストーリーで大変な人気であった。
こういうところは従来の落語家としては破格であった。
さらに衆議院議員選挙や参議院議員選挙に立候補し、1971年に参議院全国区で50番目、最後の議席に滑り込む。
「寄席でも選挙でも、真打ちは最後に上がるもんだ」とコメントした。
さらに、三木内閣で沖縄開発庁政務次官に成ったが二日酔いで記者会見に応じたことなどから引責辞任。
破天荒な言動が目立ってしまった。
政治家としては参議院議員1期6年間のみであったが、選挙の応援演説には後年も駆け付けた。
その後は、所属する落語協会の分裂騒ぎなどで名前が出て、最終的に1983年に脱退。

落語立川流を創設する。
落語協会、落語芸術協会からはみ出してしまったため、新宿・末広亭、上野・鈴本演芸場・浅草演芸ホール、国立劇場小劇場などの落語の「定席」に上がれなくなり、立川流は地方の公民館や文化会館のホールで独演会や一門会を開催することとなった。
その独演会でも、落語の「導入部」である「まくら」という雑談が、延々30分以上続くなど型破りな高座であった。
また、途中から落語の演目を変えてしまったり、客席で居眠りしている観客を目にして激昂、途中で楽屋に下がってしまうなど、話題に事欠かなかった。
だからこそ、立川談志=「落語界の異端児」という「構図」が流布してしまったのである。

だが、談志の師匠は五代目柳家小さんである。
今では、柳家花緑の祖父という感じになっていたが、かつては永谷園のお茶漬けや須藤石材のコマーシャルなどに出演して大衆に広く知られた落語家だった。
ただ、落語協会会長も務め、古典落語の正統な噺家とみなされていた。
(なお、ジブリアニメ「平成狸合戦、ぽんぽこ」の和尚役で柳家小さんは声を当てている)
さらに、談志は古典落語が本当に好きだった。
だから、古典落語に対しては真剣に取り組み、話芸を可能な限り練り上げていった。
例えば、人情噺で有名な「芝浜」だが、桂三木助の演じた女房の人物造形を談志は大きく作り変えてしまった。
だが、女房の人物像が大きく変わったにもかかわらず、「芝浜」の噺自体の味わい深さは不変であった。
そこが「古典落語」と呼ばれる芸の凄味であり、また、様々な演じ方を新たに生み出せる可能性を実演した談志という噺家の才覚と力量の凄さ、であろう。
よく「伝統と革新」というが、談志は古典落語を徹底的に演じるがゆえに、従来通りの定型からはみ出してしまう。
定跡から逸脱することが古典落語を冒涜することにはならない、というとてつもない自負が有ったればこその力技であったろう。
そういう見方をしていったならば、談志は「異端児」ではない。
「正統」であり、「本流」と言えよう。
ただ、近年に談志を表した「落語界の名人」という称号は、個人的には、まだちょっと違和感が有るのだが・・・

自分が子供時分の頃、というと既に40年くらい昔になってしまうのだろうが、新聞の広告で古典落語の全集が大きく掲載されていた。
昔のことだから、レコードとカセットテープである。
で、二人の噺家の名前が大きく掲げられていた。
三遊亭圓生と古今亭志ん生、である。
で、圓生と志ん生と二人のうち、「名人」と言ったら圓生だった。
ちなみに圓生は、昭和天皇陛下の御前で高座を演じた。
いわゆる「天覧噺家」である。
ところが近年、CDの落語全集で大きく名前が掲げられているのはただ一人。
志ん生である。
かつて、落語界随一と見なされていた圓生の評価が今では全く失われているのである。
何故、圓生が消えて、志ん生だけが残ったのであろうか?
実際にそれぞれの高座を聞いてみれば良い。
圓生の噺は「端正」なのである。
折り目正しく、乱れがない。
正確で精密なのである。
ただ、その「巧さ」が、没個性的に感じられる。
仮に、圓生と並んで「名人」と呼ばれた、桂文楽と比較してみよう。
圓生と文楽の違いを、素人がはっきりと説明出来るであろうか?
その点、志ん生は、冒頭の甲高い「えー」という声からして個性的である。
いつ、どこから聞いても志ん生なのである。
もっと言えば、どんな噺であっても、結局のところは、志ん生なのである。
つまり、志ん生の落語というのは、古今亭志ん生という類稀なる絶対的な個性、強烈なキャラクターが前面に出て来るのである。
現に、志ん生は晩年に脳出血で倒れるのだが、満足に手足も利かない、呂律も回らない状態であっても客は高座に上がって欲しい、とねだった。
「噺家なのに、満足に話せないんですよ」と志ん生の家族が言っても、
「いや、高座に上がって酒でも飲みながら、うにゃむにゃ言ってるのを見ているだけで良いんです」などとむちゃくちゃなことを言ってくる。
後に、次男の古今亭志ん朝が、「もう、噺家なんだかよく解らない」と感嘆していた。

このように志ん生の落語の面白さは、志ん生というキャラクターによる要素が強かった。
だから、話芸の面白さ、というよりは「フラが有る」と呼ばれる、全人格から醸し出される「おかしみ」であったのである。
ちなみに、「黒門町の師匠」と呼ばれた名人、八代目桂文楽は、国立劇場小劇場で「大仏餅」を口演中に、台詞が思い出せなくなって絶句。
そして「台詞を忘れてしまいました。申し訳ありません。もう一度、勉強をし直してまいります」と挨拶し、深々と頭を下げて噺の途中で高座を降りた。
以後、二度と高座に上がることはなく、それから間もなくして亡くなった。
ほんの数十年の間に、落語家に対しての評価が変わったのである。
自分は、録音技術やテレビなどの記録・放映媒体の技術の進歩が背景として存在しているように考える。
かつて、芸能は、「その場限り」のものであった。
だから、ライブで演じられたものは、どんなに素晴らしいものであっても「一回限り」であった。
そこで、素晴らしい演目を正確に繰り返し演じ続けることが要求されたのである。
以前、見たもの聞いたものと同じものを、再び、もう一度見せて欲しい。
それは、同一人物ではなく、世代を超え、時代を超えたかたちでの「芸の継承」というかたちに成った。
勿論、ただ単に、以前の通りそのまま、ということではなく、洗練と創意工夫が加えられていったのである。
その継承と洗練の結果が古典芸能というかたちに結実した訳である。
だが、録音と放送の技術が進むにつれて、必ずしも以前の昔ながらの話芸を継承することが大前提ではなくなった。
例え、物故されていても「往年の大師匠の名演」というかたちで記録に残っているわけである。

となれば、先代と同じ通りに正確に演じ続けるのではなく、噺家各自の「持ち味」「個性」といったものの「味わい」が、話芸を楽しむ要素として浮上してくるわけである。
古今亭志ん生の「話芸」は、まさにその価値観の転換によって評価が高まった訳である。
志ん生が演じる高座は、何をやっても誰を演じても「志ん生」でしか有り得ない。
(次男の古今亭志ん朝が、「志ん生」の名跡を襲名することを避けたのは、志ん生のキャラクターが自分とあまりに違い過ぎることを痛感していたからであろう。志ん朝は、自分自身の「志ん朝」というキャラクターと「志ん生」というキャラクターを守るために、結局、「志ん生」を襲名することなく逝去した)
言ってみれば、映画スターの高倉健や石原裕次郎が、どんなストーリーのどんなキャラクターを演じていても、高倉健、石原裕次郎でしか有り得ない、というところに通じて来る。
落語に於いても、話芸の技術の巧妙さ、よりも他の誰にも真似出来ない傑出した個性・キャラクターが評価されるようになったのである。

そういう意味では、立川談志はどんなかたちであれ、明確に立川談志であった。
ただ、立川談志は、(熱烈なファンからは激怒されるだろうが)自分は、声が良くない、と感じる。
ハスキーなガラガラ声で、実は聞きとりにくい声だと思う。
落語を演じている時はあまり気に成らなかったのだが、1997年に劇場アニメ映画「ジャングル大帝」で声優をやった。(この映画、興行的にはコケた)
敵役の密猟者「ハム・エッグ」を熱演されたのだが、正直言って、よく聞き取れなかった。
立川談志にとって手塚治虫は特別な存在で、「天才というのは、手塚治虫とレオナルド・ダヴィンチだ」と言い切って憚らなかった。
また、他人の選挙には喜んで駆け付けたのだが、自分からは選挙に出馬しなくなったのは手塚治虫が議員会館にやって来て「もう、選挙に出て政治家にならないで欲しい」と言われたからだ、と言われている。
その理由は、その素晴らしい才能を落語に全て注いで欲しい、ということのようであった。

噺家の声、というと自分が「声が良い」と感じたのは初代・林家三平。
髪の毛もじゃもじゃで、「えー」「うんと、うんと」なんてジタバタしている三枚目のイメージが濃厚なのだが、目をつぶって声だけを耳を澄まして聞いてみると、大変な「声の二枚目」なのである。
また、声が鼻から抜ける感じは有るのだが、古今亭志ん朝の声も聞き取りやすくて素晴らしい。
「口跡が良い」という褒め言葉が有るのだが、志ん朝は生前、テレビ番組のナレーションを数多く担当していた。(ジブリアニメ「平成狸合戦、ぽんぽこ」でもナレーションを担当している)

一方で、春風亭昇太は、キャラクターの楽しさである。
必ずしも聞き取りやすい声ではない。
だが、声の良し悪しは、声優やアナウンサーではないので決定的な要素ではない。
噺家は、その自分の声の質を踏まえた上で、いかにして話芸を磨いていくのか?という点に精進のやりがいというものが見い出せて来るのであろう。

立川談志は、異端児だったのか、はたして落語界の正統派だったのか。
ここまで縷々書き綴って来たのだが、結局のところ、自分にとっては「どうでも良い」。
何故なら、とにかく、自分は立川談志という才能とキャラクターに魅了されてしまったからである。
あの、考察と論理の冴え。
とてつもない、頭脳の回転の速さ、であろう。
しかし、立川談志は死んでしまったし、上岡龍太郎は引退してしまった。
ビートたけしは、最近、ちょっと老化の衰えを感じて、大変寂しい思いをしている。
かつて、テレビをつけると、ブラウン管越しに、丁々発止、ギラギラするくらい鋭い言葉の応酬を目にすることが出来た。
最近で言うと、マツコ・デラックスや有吉弘行あたりに、そういう鋭さと冴えを感じることが有るのだが、談志と上岡龍太郎とたけしは、長時間、延々とぶっ通しにやれるだけの継続力が有った。
だが、近年の毒舌は、単発的で短いのである。
確かに「寸鉄人を制す」訳だが、後から後からとめどなく沸き上がってくる「屁理屈の奔流」の迫力を、今、また堪能してみたいのは、自分がもはや「時代遅れ」だからであろうか?

白井裕一
派遣会社員のブロガー
1971年東京都生まれ。
日本大学農獣医学部林学科卒。
会社員として働きながら、ボランティア活動に参加。
政治、宗教、芸術、歴史に興味が有り、素人なりにいろいろと調べて分析することを楽しむ。
なお、現在ブログは休止中。

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