【特集】新潟県の2大都市・新潟市と長岡市に挟まれた「燕三条」はなぜ積極果敢に世界の市場へと向かうことができるか?
偉大なる田舎、三男坊などと揶揄されながらもグローバル企業を輩出し独自の存在感を発揮する名古屋経済圏。新型コロナの影響で直近の数値に変動があるかもしれないが、「令和元年 全国開港別貿易額表」や、「平成30年(確定値)全国港別輸出入額順位表」を見ると名古屋港は輸出額で1位となっている。
また少し古いデータになるが、内閣府が公表している「県民経済計算(平成27年度)」の「県内総生産(名目)」や「1人当たり県民所得」を見ると、愛知県は東京都に次いで2位となっている。加えて、製造品出荷額は全国屈指だ。
これと似た構図が、新潟県内にもある。規模感は全く異なるものの、人口が県内第1位の都市である新潟市と県内第2位の都市である長岡市に挟まれた燕三条地域だ。高品質なカトラリーや金属製品を武器に海外の市場を切り開こうと意気盛んである。なぜ、燕三条の企業は積極果敢に世界の市場へと向かうことができるか。
燕三条海外進出への萌芽
以前この地域の歴史を特集した記事(三条編・燕編)でも紹介したように、燕と三条がある県央地域は金属加工に適した地理を持ち、江戸時代には和釘の一大生産地として栄えていた。だが、その後の歴史は順風満帆だった訳ではない。文明開化以降、西洋建築が主流となったことで和釘は使われなくなり、両地域は苦しい立場へ追い込まれという。
その中で見出した活路の一つが、洋食器や調理用品である。明治44年、東京銀座の「十一屋商店」から注文を受け、燕の「玉栄堂」が洋食器の生産を始めたことから洋食器作りがこの地域で盛んになり始めた。
また、もともと、江戸時代の時点でも、燕では鎚起銅器やキセルなどの銅製品、三条では打ち刃物など、和釘製造技術を下地とした技術が受け継がれ、和釘中心だった産業から脱却し、燕三条では多様性に満ちた様々な工業が芽吹いていたのだ。
こうした中で、明治政府が外貨獲得のため地場産業製品の輸出や海外博覧会への出品を推奨したこともあり、生活用具だけではなく、付加価値の高い製品も作られるようになっていった。
戦争の時代は、燕と三条へ影と光をもたらした。第一次世界大戦時には、軍需生産により日常品を作れなくなった欧州から注文が入るようになる。また同時期、燕三条へ電気が通い、プレス機による本格的な大量生産が可能になっていく。さらに海外用の製品を作るにあたり、現地の趣向や状況を探るための視察や、商談が行われていく。燕三条が海外進出は、この頃から芽吹き始めていたのかもしれない。
第二次世界大戦時には、その“工業力”を使い、軍需用品の生産を請負い始める。当時の最先端術である軍需品の生産は、燕三条へ技術革新をもたらした半面、資源も人材も軍需品の生産へ駆り出された。技術の進歩があった一方で、ものづくりの伝統は途切れた時代でもあった。
円高で輸出は壊滅的打撃
戦後、各地へ散らばった職人を集めるなどして燕三条は復活し、1950年代には輸出がピークを極めた。しかしその後、またしても苦難が燕三条を襲う。欧州や中国などでも競合品が製造されるようになった上に、1985年のプラザ合意に伴う円高の進行で、輸出は壊滅的な打撃を受け、ほぼゼロになったのだ。
これに伴い、国内市場へと回帰し、国内シェアではほぼ100%を占めるようになっていった。「2000年頃の燕三条は輸出が盛んではなかった」とある三条市に関わりのある金融関係者は当時を振り返る。
ただ、その後、海外への進出を行う企業もあったという。2000年以降、東陽理化学研究所(当時本社は燕市)がアップルのiPodの鏡面加工されたステンレスカバーを受注するようになった。またノーベル賞晩餐会で使われるカトラリーを製造していることで一躍名を馳せた山崎金属工業(燕市)も量から質へと高付加価値化へと転換していった。こうした付加価値化へと転換を図る企業は他にも相次いで出てきたという。玉川堂に、現在の社長である玉川基行氏が入社し、販売経路の変革と海外進出に本格的に取り組み始めたのもこの時期である(関連記事「積極的な海外展開とオープンファクトリーに挑む鎚起銅器の老舗、株式会社玉川堂(新潟県燕市)」2020年10月5日)。こうした動きが再び輸出へとつながっていったが、「燕三条全体の取り組みとはならず、あくまで個々の企業、ここの製品の取り組みの域を超えてはいなかった」(金融関係者)という。燕三条の輸出の取り組みが面になっていたのはその後のことだ。
燕三条が輸出拡大できた理由
では、なぜ燕三条の輸出の動きが「点」から「面」へと拡大することができたのか。前出の金融関係者は、いくつかの理由があると分析する。
1つ目は、どんなニーズにも対応できる全国屈指の金属加工産業の集積地であること。「燕三条では車から日用品まであらゆる産業の金属加工を行なっている。不景気になってもすべての産業が悪くなるわけではないため、全滅することはなく、どんな不況期でも燕三条は乗り越え超えてくることができた」(金融関係者)のだ。また危機に直面するたびに脱却してきた先代社長の姿を見て「起業家魂」を皮膚感覚で学び取り、積極果敢に挑戦する後継者が少なからず育ったことも大きいという。
「工場の祭典」公式サイトでも、和釘から始まった技術が無数の産業へ分化していく様子が紹介されている。
2つ目は、それまでほとんどなかった企業同士が連携に向かい始めたこと。先述の通り、かつて燕三条は個々の企業、製品で輸出は行われていたが、地域全体として輸出強化に取り組んできたわけではない。こうした中、「15年ほど前から地元金融機関の三条信用金庫が、お互いの知恵を使ってイノベーションを起こす」ことを目的に、次世代若手経営者を対象にした「次世代経営塾(原則40歳で卒業する塾)」を立ち上げた。塾生は工場見学などの事業を通じて交流を深め、次第に経営者同士の連携が進んでいったという。なお過去にはマルト長谷川工作所やシマト工業の現代表も参加していたほか、現在も100名以上の塾生がいる。
塾の卒業生に加え、世代交代でしがらみのない若手経営者も増え、経営者同士の交流の輪は広がっていった。こうした交流の広がりは、行政も巻き込む形で広がり、磨きのプロ集団「磨き屋シンジケート」、金属研磨業に携わる後継者の育成などを行う「磨き屋一番館」、鍛治体験施設「三条鍛治道場」、今や大人気のイベント「工場の祭典」などを生み出した。
一方、燕では、2002年に燕商工会議所が燕市国際交流協会を立ち上げ、様々な催しを企画・実行してきた。学生を対象とした英語教育プロジェクト「Jack&Bettyプロジェクト」や外国人との交流イベントが有名ではあるが、産業の面でも、ロシアや中国などの市場調査や、ドイツのフランクフルトの見本市への出展協力、海外企業との商談機会の創出など、海外展開をあまり積極的に行えていない企業への協力を行ってきたという。
「スノーピークの存在も大きい」と前出・金融関係者は指摘する。それまで「三条の刃物技術」と「燕の研磨技術」の両方を使った製品はなかったが、スノーピークが両方の技術を活用したキャンプ製品を開発・投入し、三条と燕の間にあった心理的垣根を一気に下げたのだ。これまでの“体制”に慣れてきた高齢の経営者の中には、山井氏(スノーピーク現会長)のやっていることに不快感を感いる人もいるようだが、逆に若手経営者の中には山井氏を慕う人も多く、今後さらなる2つの技術がコラボした高付加価値製品への登場にも期待が集まる。
このほか、日本海を挟んで中国などがあるということも有利に働いてきたという。ただ、最近は新型コロナウイルス感染症の影響でグローバルな取引に大きな影響が出ている。この点については、「実は燕三条の輸出額はそれほど多くない。加えて、直取引での輸出は少なく、東京や台湾(の商社)経由で輸出しているため、輸出国を他国に切り替えるなどのリスク回避は取りやすいのではないか」(金融関係者)と話していた。
一方、燕三条地域も、国内の多くの地域と同様、人材不足という課題に直面し、その対策が急務だ。とくに「技術とイノベーションを生み出すことのできる人材を今後もいかに集めていけるかが燕三条の命運を握っている」(前出・金融関係者)。こうしたなか、数年前から構想があり来春開校を迎える三条市立大学(仮称)に期待が集まる。
三条市立大学はインターンに重きを置いた工学部単科大学。1年次から企業を見学し、2年、3年次では自分の力を発揮したい会社を見つけて中期、長期実習へ赴き、「企業で分からなかった課題を学校で学び、学校で学んだ知識を実社会の課題解決で発揮する」というスパイラルの中で、単なる知識に止まらない実践的な経験と、社会的なスキルを身につけていく。
なお実習先は燕三条の92社の中から自分の興味のある分野の企業を選択することができるという。さらに、まだ発表となっていないが、実社会で働く能力に加え、イノベーションを生み出すためのアントレプレナーシップを身につけることができる講義も用意されるようだ。三条私立大学のアハメド・シャハリアル学長は「単に専門知識を持つ人間ではなく、イノベーションを起こす人材を育てたい。自分では、“県内20番目”ではなく、まったく新しい取り組みを行う日本初の大学だと思っている」と意気込みを話す。
「三条市立大学が起爆剤となり、地域内、県内に人材がプールされていき、世界に向けて出ていく形になってほしい」と金融関係者は期待を寄せる。
(文・鈴木琢真)