へら絞り技術の後継者を育成するミノル製作所(新潟県燕市)
全国でも数少ない金属加工技術「へら絞り」
新潟県燕市で金属加工業を営むミノル製作所では、「へら絞り」と呼ばれる金属加工技術を継承するため若手職人の育成に力を入れている。その一環として現在、同じく燕市の伝統工芸「鎚起銅器」を受け継ぐ株式会社富貴堂とのコラボレーションを開始したという。同じ金属加工とはいえ、一方は企業向けの試作品を主力とし、片や伝統工芸品を作り続けてきた全くの異業種同士。一体どのような目的でこの試みを始めたのか、ミノル製作所の本多貴之代表に話を聞いた。
まず、「へら絞り」とはどういった技術なのだろうか。「へら」とはこの加工技術に使用する特殊な金属棒のことである。一枚の金属板を旋盤へ取り付け、その回転する表面へ「へら」を押し付けて変形させていく。その様子は、ろくろ陶芸の金属加工版だと想像すると理解しやすい。
金属板を加工する方法として現在最も普及しているのは、プレス加工である。プレス加工は「オス型」「メス型」と呼ばれる凸凹の2つの型で挟むことにより金属を変形させる。一方で、へら絞りは「オス型」と「へら」を用い人力で加工するため、大量生産には向かないが、型の製作などへの先行投資が少なくて済む。そのため、主に企業の試作品製作など小ロット生産で重宝されている。
工業製品の製作には欠かすことのできないへら絞りであるが、現在は職人不足が深刻な問題となっている。金属加工のメッカ、燕三条でもへら絞りを受け継ぐ会社は10社もなく、そのほとんどが後継者を確保できない現状があるのだ。そこで立ち上がったのが、ミノル製作所の本多代表だった。
後進育成に賭けた本多代表の覚悟
本多代表は西燕駅付近でへら絞りを営む家に生まれ、自身も父から家業を継ぎ職人となった。そうして職人としてのキャリアを積んでいった30代後半、自分のところへ来る依頼が増加していることに気がついたという。「当時、周りのへら絞り職人たちが減少していった影響から、私へ舞い込む仕事が増え、ついには捌ききれなくなっていた。周囲からは私の仕事が増えたことを囃す声もあったが、自分のキャパを超えて溢れていった案件を考えた時、この地域と業種への危機感を感じた」(本多代表)。
へら絞り職人の多くは本多代表の親世代、つまりは現在60から70歳代の職人が占め、体力面や仕事量、そして健康寿命の面から、後継者への教育がままならない現状にあると本多代表は話す。「熟練を要するへら絞りの業界においては私もまだまだ若手で、ミノル製作所を立ち上げ新入社員が入るまでは、この地域では自分が一番若いぐらいだった。なので、本来であればもっとベテラン世代の職人たちが教えた方が、新しく入っていく人たちにとっても幸せなことだと思う。しかし、その時間はもう無い。新入りの職人を一人前に育て上げることができるのは、私たちの世代だけ。今まで後進を育成してこなかった業界のツケが、限界まで来ていた」。
ミノル製作所の創立は2016年、西燕の本多代表の工場を移転する形で始まった。現在ミノル製作所で働く若手へら絞り職人は3人で、内2人は今年で3年目の勤務。このほかにも、へら絞りの材料となる金属板を作るサークルシャー機などのオペレーター数名が所属し、新世代のへら絞り工場企業として再スタートしている。
若手職人たちは現在、現役時代の本多代表よりも時間はかかるものの、質の面では十分に商品を製造できるレベルにまで達しているという。そして本多代表は現在、職人としての仕事はほぼ引退し、指導と経営に専念している。この点に関して本多代表は「私も職人として続けていると、依頼主は未熟な若手ではなく私に依頼したいと考えてしまうし、社員もどこか甘えのようなものが出てきてしまう。それではこの会社をつくった意味が無い」と話した。
しかし一方で、周囲からは「お前のところは家業を引き継ぐことができたのに、なぜ職人を辞めるんだ」という声もあったという。しかし職人の世界である以上、現場を離れる時間が長くなるほどに技術は錆びついていく。「以前、久しぶりに私でないとできないレベルの依頼が来てへらを握った。商品は完璧に納品できたが、仕事に身体がついて行けなくなり始めていることに気がついた。やはり、この世界でプレイングマネージャーは厳しい」と本多代表は思い返す。業界と地域を再生するために、家業としてのへら絞りを自分の代で断つ──そこには、強い葛藤と覚悟があった。
こうしたミノル製作所の活動を目の当たりにし、燕のなかでも変化が生まれている。試作品などの依頼をする際、納期に余裕を見た形でミノル製作所の若手へ依頼する企業が出てきているのだ。燕では今、未来への投資が始まっている。
若手職人たちの取り組み
へら絞りは人力での加工であるため、素材ごとに加工の方法が変化し、本来は専門の職人が各素材を取り扱ってきた。当然、職人の母数が減少することで扱うことのできる素材も減ってきている。ミノル製作所ではこれまで、ステンレスや鉄といった比較的硬い素材を取り扱ってきていたが、業界の現状を見て銅やアルミニウムなどの比較的柔らかい素材への挑戦を始めたのである。しかし、前述の通り後進育成に時間を割くことのできる職人は燕に存在しない。そこで始めたのが、富貴堂とのコラボレーションだ。現在は富貴堂との交流を通して銅素材の生かし方と加工の方法を学んでいるが、今後は後述の独自商品への発展を考えているという。
熟練職人による商品の製造ができない以上、後継者の育成には莫大な費用が必要となる。しかし、それでも「ブレてはいけない」と本多代表は語る。「職人を1人育成するために、少なくとも年500万円の投資が必要になる。それは、工場の稼働のための費用や、練習のための材料費など様々。しかし、この仕事は失敗からしか学ぶことができない。やると決めたからにはやらないといけない」。
多額の投資が必要となる以上、闇雲に社員を増やすことはできない。ミノル製作所では、3回の面接と見習い期間を設けて新社員を見極めている。最初の面接では、入社して見習いとなるかどうか判断し、2回目の面接でへら絞り職人か機械のオペレーターになるかを決め、ここから職人として1年に渡る練習生期間が始まるのである。
そして、最後の面接は「熟練の職人となったのちに独立を目指すか否か」を訊く。本多代表が目指すのは、独立した技術者が並存する元の燕の姿である。独立の道を目指す職人がいた場合は、受注や経営などのノウハウも授けていくという。
「へら絞り」をオープンな業界へ
本多代表は、へら絞りの後継者問題には業界自体が抱える特徴が存在すると話す。それは、この業界が主にBtoB、特にその中でもトップシークレットとなる試作品の製造を受けることから、業界自体が表へ出てこなかった過去があることである。企業とのつながりの強さゆえに看板や広告を打たずとも安定して依頼があり、知名度と新規の参入者が集まらなかったのだ。また、「高齢の職人が昔のままの価格で商品を製造していたことにも新規参入が難しくなっていた理由がある」と本多代表は話す。適正価格以下での展開により、儲けることができない、挑戦することができない業界となっていた。
業界の知名度向上のため、ミノル製作所ではBtoC商品への進出も企画されている。その第1弾となったのが、家のインテリアとしても店のディスプレイとしても使用できる「シンクロアート」。自作のパイプを用い、じわじわと不思議な動きが目を引く「動くディスプレイ」は、展示会や県内の小売店舗にて、一風変わった展示棚として注目されているようだ。
本多代表は「試作品をつくるという業務上、自分たちも用途がわからず図面だけしか知らないモノを作ることが多々ある。そのため、『これは何に使われるのだろう?』と考えることは多く、その想像力が商品開発へも繋がっていくと考えている」と商品開発も道のりを話す。今後はこれまでの業務と並行して、こうしたへら絞りをアピールする商品への道を放り開いていくようだ。
現代はあらゆる産業にとっての転換点となりつつある。際限なく続いていた大量生産と価格競争は泥沼の様相を見せ、産業は「モノ」から「コト」重視へ転換し、企業にはSDGsに代表される環境や社会への責任が求められるようになってきた。産業の街であるここ燕でも、「工場の祭典」に代表される体験を重視したオープンファクトリーや、ブランド力を武器に展開する企業が増えてきている。
ミノル製作所の試みは、後継者を作ることだけが目的ではない。前述のように本多代表は、職人たちへ技術を教えるとともに経営者としての視点も授けている。さらに今回、鎚起銅器の老舗富貴堂とコラボしているように、付加価値を高めた商品を生み出すための商品企画力の育成にも力を入れている。かつてのようにへら絞り職人が並存しながらも、各々が新しい時代のマインドを持つ。そのような燕と業界の未来へ挑戦しているのである。(文:鈴木琢真)
【ミノル製作所】
【関連リンク】
ミノル製作所 公式サイト