【特集】越後の青苧(あおそ)は上杉謙信の財源だったのか?歴史上の謎を探る

上越市春日山城跡の上杉謙信の銅像

青苧(あおそ)は、苧(からむし)・苧麻(ちょま)を水にさらし、細かくさいた衣服の原料で、古くから越後上布(じょうふ)の材料として有名であった。一説には、越後の戦国武将・上杉謙信の重要な財源となり、関東での戦(いくさ)を支えていたという話もある。ところが、上越市公文書センターの福原圭一所長は「青苧が謙信の時代に上杉家の財政を支えていたことを示す資料は一切ない」と話す。そもそも、謙信時代の上杉家の財政状況が分かる資料がないという。上杉謙信を専門に研究する福原所長に、戦国時代の上杉家と青苧の関係について聞いた。

京都の三条西実隆(さんじょうにし・さねたか)という公家が「実隆公記」という膨大な量の日記を残しており、その日記に越後の青苧のことが書かれている。三条西は青苧の商人が結成した「青苧座」を取り仕切っており、三条西家には「青苧座年貢」、今でいうロイヤリティが入っていた。

「実隆公記」は、謙信の父、長尾為景(ためかげ)時代の途中で終わってしまうため、その後のことがよく分からないという。ただ、大永5年(1525年)には、蔵田五郎左衛門尉(くらた・ごろうさえもんのじょう)という為景の家臣が実隆のもとを訪れ、毎年納めている「青苧座年貢」を減額して欲しいと交渉し、実隆が怒っている様子が書かれている。

実際に、その後は50貫文という定額で「青苧座年貢」を支払っている。つまり為景は出来高を勝手に、現代で言うサブスクリプションにしたというわけだ。しかも、それすら4回ほどで滞り、実隆は「ここ3年間全く届いていないが、どうしたのか」という手紙を残している。

戦国時代は社会が大きく変わった時代で、それ以前のように京都の公家が地方から富を吸い上げるということができなくなってきていたという。福原さんは「それまでの京都一極集中の時代から、地方分権化していくのがこの時代。戦国大名とは、要するに地方の自立だ」と話す。

三条西家が懐に入れていた分を、今度は上杉家が収入としたのだが、そもそも青苧はどのくらいの儲けになったのだろうか。先ほどの定額払いの金額は年間50貫文(かんもん)だった。青苧から得られる収益の全体がどの程度になるのかはわからないが、三条西家に払っていたロイヤリティの割合が仮に1割とすると総額は500貫文程となろう。

「室町時代の京都では家屋売買の際に、売却額の10分の1を本所へ納入させる慣習があり、割合としてはその程度が妥当な数字ではないか」と福原さんは考える。謙信の時代よりも古いが、享禄2年(1529年)の「公銭勘定状」という資料があり、越後守護所の収入総額は4,770貫553文だと記されている。単純に比較はできないが、500貫文を多いとみるか、少ないとみるかは意見の分かれるところではないか。

福原さんによれば、謙信の時代に上杉家がどのくらいの財政規模であったかを示す資料は皆無だという。結局のところ、当時の文書がないため、青苧が謙信の財政を支えていたと、はっきりとは言えないとの結論に至った。

「青苧が越後の特産品であったことは間違いなく、地域おこしに青苧を活用しようという活動に水を差すようなつもりはまったくない。ただ、私たち歴史研究者が何かを言うには、文書という裏付けが必要であり、そうしたエビデンスがあってこそ他人が検証できる」と福原さんは話を締めくくった。

歴史学は科学であるため、立証できないといけないし、実は分かることの方が少ない。そこに歴史のロマンがあるのかもしれない。

上越市公文書センターの福原圭一所長

 

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(文・梅川康輝)

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