新潟県中越地震から18年、被災当時を振り返って、アオーレ長岡に献花台
23日、午前中の晴天とは打って変わって、午後からしとしとと雨が降り始めた。
18年前のこの日は晴天だった。「ちょうど職場で他のスタッフと『夕日が綺麗だね』なんて話をしていたんです」と、小野塚正道さん(47歳)は振り返る。小野塚さんが被災したのは、ちょうど仕事が終わって、家路へと向う自動車の中である。運転中、強い揺れを感じた。「始めは車の故障かなと思ったんです。でも車窓から外を見たら、外のリサイクルショップが倒壊していた」という。
それから5分程度たって、慌てて車内のラジオをつけた。当時の小野塚さんは20代後半、父親と2人で暮らしていた。最初に頭によぎったのは、家族のこと。そして仏壇などの家財道具のことだった。父親もその時間帯はまだ自宅に戻っておらず、幸いなことに2人とも無事だった。被災の経験を通して、小野塚さんは、命の大切さを実感している。多少の困難があっても当時の大変さを思い出せば乗り越えられる。「健康に注意して、頑張らないと」と、自分を奮い立たせている。
最大震度7を記録し、68人が犠牲になった2004年の中越地震から、ちょうど18年たった。アオーレ長岡(新潟県長岡市)ではこの日、献花台が設置され、集まった市民が犠牲になった人々へ哀悼の花を手向けた。発生時間の17時56分になると、黙祷が捧げられた。献花台両脇には地震発生直後の様子が写された写真パネルも展示され、改めて被害の大きさを実感、驚愕させられた。
献花台に花を手向けていた60代夫婦の話を聞いた。現在、県外在住の二人は、この日、たまたま用事があり、来岡した。駅で地震が発生した日だったことを思いだし、献花台へと足を運んだ。震災当時、同地にはまだ厚生会館が建っており、今回アオーレには初めて来たという。
18年前、日赤町のマンション3階に住んでいたが、突然の揺れに「とにかく驚いた」。「地面が縦揺れで、土台がゆれている。下駄箱の靴が飛び出した。冷蔵庫の上にあった電子レンジが床に落ちて散らかっていた」という。「停電になり、翌日まで水も出なかった」と罹災時の苦労を語った。改めて衣食住の大切さを実感している。「何十人の方が、エコノミー症候群で亡くなっている。当たり前だけど(今後)こういうことが起きて欲しくない」と語る。
献花台の受付をしていた市役所職員によると、花を手向けに来る人の数はほぼ昨年と同じくらいとのこと。時間の経過とともに人々の悲しみは癒やされてゆくかもしれないが、一方で災害の悲惨さ、大変さが風化されてしまう懸念もある。今後、災害の経験を後世に伝え続け、日常の生活の中で備災や防災意識を持ち続けることが必要になってくる。日々の何気ない瞬間のなかで、過去の歴史に目を向けることがそれらの意識づけにつながる。1分間の黙祷が終わると、またせわしない日常が静寂を破って目の前に現れた。
(文・撮影 湯本泰隆)