明治から昭和に出版界・政界で活躍した上越市出身の偉人・増田義一の展示会「増田義一展」がきょう最終日

出版社社長や衆議院副議長を務めた上越市の偉人、増田義一

新潟県上越市板倉区出身で、出版社社長や衆議院副議長を務めた偉人、増田義一の展示会「増田義一展」がゑしんの里記念館(上越市板倉区)で開かれている。この展示会は10月21日にスタートし、きょう20日が最終日だった。

上越市ホームページなどによると、増田義一は明治2年、戸狩村(現上越市板倉区戸狩)に生まれた。13歳で代用教員となり、翌年には中等学校教員免許を取得、20歳を過ぎるころまで教員を務めた。

明治22年に教員を辞職。その後上京し、明治23年に私学の雄・東京専門学校(現早稲田大学)へ進学する。

東京専門学校に在籍している間も多くの政財界の著名人と交流した。卒業後、明治26年に読売新聞社に入社。明治30年、雑誌「実業之日本」の編集権を譲り受けることになり、同時に「実業之日本社」を設立した。この「実業之日本社」の経営に義一は生涯を捧げ、社の看板雑誌である「実業之日本」をはじめ、実業書はもとより少年誌や婦人雑誌などを手がけ、大きな成功を収めていく。

明治35年には、アメリカ人作家の「実業の帝国」の翻訳本を出版し、ベストセラーにもなっている。明治42年には、著書「武士道」で有名な新渡戸稲造を顧問に迎えている。

一方、増田は政治活動では、明治36年に同じ板倉区出身で同門の東京専門学校出身の中村十作による沖縄・宮古島の人頭税廃止運動に協力し、国会請願を果たした。明治45年には、旧中頸城郡から衆議院議員に立候補して初当選を果たし、さらに大正12年に再び衆議院議員に当選。その後、副議長や予算委員長などを歴任し、昭和21年に公職追放を受けるまで20年余りにわたって衆議院議員を務めた。

そして、戦後からまもない昭和24年に79歳で永眠した。

(敬称略)

展示会の様子

こんな記事も

 

── にいがた経済新聞アプリ 配信中 ──

にいがた経済新聞は、気になった記事を登録できるお気に入り機能や、速報などの重要な記事を見逃さないプッシュ通知機能がついた専用アプリでもご覧いただけます。 読者の皆様により快適にご利用いただけるよう、今後も随時改善を行っていく予定です。

↓アプリのダウンロードは下のリンクから!↓