【新連載】連載小説「シェアハウスの幽霊」第1回 早川阿栗 

バスには乗りたくなかった。停留場を降りたら目的地のすぐ近くにたどり着いてしまう。そもそも時刻表や運賃どころか路線図すら昔と変わっているかもしれない。あらゆることが億劫でならなかった。

吉永康太は新幹線を降りたあと白山駅までJRを利用することにした。数年ぶりの帰省だったが何の感慨もわかず、車窓を眺めもしない。電車は直線的に信濃川を越える。

足取りはひどく重かった。九月半ばになっても夏の勢いは衰えを見せないままだが、この日は気温もそれほど上がらなかった。東京から新潟まで移動する間、汗をかくこともなく、暑さに関する鬱陶しさも忘れていた。

康太は二か月ほど前に離婚した。そのあとで仕事も辞めた。妻の家族が経営するイベント会社が勤め先だった。小規模な組織で社員は親戚しかいない。それでもコロナ禍もひとまずある程度の落ち着きを見せる中、各種ライブや公演などのイベントは増えつつあった。

妻と別れてからも居座るほど神経は図太くなかった。意図的に追い出されたわけでもないが、自ら退いてしまった。

妻と暮らしていた賃貸のマンションを出て、新たに部屋を借りた。高円寺から、そして妻の家族や会社からも距離を取る。失業保険はありがたかったが、餞別をもらっているようで収まりの悪い気分だった。次の仕事をどうするか考えているうちに一か月が過ぎる。堕落した日々がくり返される。

決心もつかないまま、何もかもを先延ばしにするように、一度、実家へ戻ることにした。部屋に積まれたコーヒーの空き缶の量に自ら唖然として、東京から一旦離れる。これが缶ビールに代わったらいよいよだ、とそら恐ろしい気持ちだった。だが、アパートを引き払うつもりはなかった。

結婚生活は二年程度しか持たなかった。妻との間に子供がいないことが幸いだったのか、もしいたならば、このような結果になっていなかったのか、康太にはわからない。

実家は信濃川のすぐ近くにあった。数年の間でどこがどう変わったのか、白山駅周辺の様子を確かめる気力もなかった。このまま母が一人で暮らす狭い一軒家へ戻って何をしようか、十分後にしたいことも思い浮かばない。自然と川岸とは反対方向へ足を伸ばす。何か目的があってのことではない。夢遊病者のような歩みだった。
「康ちゃんちん」

いっそのこと白山神社まで行ってみようか。ただ何を祈ったらいいのだろう。そんなことを考えている矢先、背後から呼びかけられた。低くおっとりとした声の響きだった。振り返ると長髪の男が大きく手を振っている。アロハシャツ姿に一瞬どきりとする。新潟という土地柄、あるいはこの日の上がりきらない気温、どちらに対しての違和感なのかよくわからなかった。思考がせわしなく巡る間にも、目の前の男がピンキーだと理解する。

ピンキーこと北島守は小中学校の同級生だ。現在も新潟市内で暮らしている。大学時代、帰省の際に会ったとき、左手の小指を失っていた。バイト先での事故による欠損らしいが、ピンキーと呼んでくれ、と自ら言い出した。ピンキーリングをはめることができないという事実を忘れないため、と酔いながらも自嘲気味に語る姿が印象的だった。

その呼び名はあまりにもしっくりきて、小学生のときからすでにピンキーと声をかけられていたようなイメージさえ康太には浮かんだ。

十年以上、連絡すら途絶えていた。それでも指を見なくても、康太にはピンキーだとすぐにわかった。

市役所前から古町方面へ歩きながら近況を報告し合う。できたてほやほやの離婚話をピンキーは鷹揚に受け止めてくれた。ときどき笑ってくれるのもありがたかった。先導する足取りは早く、意識していないと差が開いてしまう。長い空白が生まれることなく、会話はぽつぽつ続く。商店街をしばらく進み、夕方前から開いている飲み屋に入った。
「とりあえず、お帰り、ってことで、乾杯」

ピンキーの屈託ない物言いは不快ではなかった。独特な距離感での接し方に康太は素直に心を開いていた。酔いが回り始める前から、身の上話をくり返し語る。その合間にピンキーも新潟の生活について話す。お互いの空白期間を埋めていく中、生ジョッキやら日本酒やらハイボールやら種類を変え、グラスやお猪口を次々と空にする。海鮮中心のおつまみ三種盛りを何度も注文した。左利きのピンキーは慣れた手つきで料理に箸を伸ばす。失われた小指の名残はぴくりとも動かない。(続く)

 

 

早川阿栗(はやかわあぐり)

新潟県上越市出身、東京都内在住。第105回文學界新人賞島田雅彦奨励賞受賞「東京キノコ」。また、別の筆名で県内の各種文学賞を受賞。

 

 

 

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