【連載小説】「シェアハウスの幽霊」第4回 早川阿栗・作

 

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第4回


新潟市の古町通り

 

川沿いの散歩とヨーグルト、そしてコーヒー。このようなモーニングルーティンで康太の一日が始まる。それから先、母がパートに出たあとは何の予定もない。無目的に漠然とした時間をただ浪費するだけだ。その怠惰さもある意味、お決まりではあるものの、暇を持て余すこと自体に康太は慣れていない。ほんの一月ほど前まで、東京には家庭があり、仕事があった。

結婚後の早いうちからすれ違いは始まっていた。妻の家庭と関わりを持ち、自分の仕事もそのサークルへ取り込まれていく。なじめなかったわけではないし、無能ではなかったという自覚はある。ただ、家族との間柄が濃厚で深くなればなるほど、妻とは距離ができるようだった。二人きりで暮らす空間へ戻ると、その感慨はいよいよ強くなった。孤独とカテゴライズするには乱雑な感情だった。

それを解消するためには子供が必要だったのかもしれない。だが、順番のようなものがひっくり返ってしまった。もはや子供を作ろうとする気持ち自体が湧いてこなくなっていた。それに気づいたとき、だめになるかもしれない、という可能性を康太は思い描いた。そして予想通りの道を辿ることになった。結末は思いのほか、早く訪れた。

実家へ戻ってきて以降、離婚したことの後悔ともつかない思いが何度となくこみ上げてきた。そんなときに浮かぶのは、妻よりも、義兄や義理の両親、甥や姪たちの顔だった。

離婚が成立するまさにその瞬間は書類を区役所に提出したときなのだろう。しかしその手続きが正式に受理されたのがいつなのか、康太ははっきりと知らない。

離婚届に署名したのはやたらと暑い日だった。夜、妻の前で必要な事項を記し、印鑑を押した。それから冷蔵庫に入れたままだったワインを一杯だけ二人で飲んだ。一日中、汗は止まらなかった。特にわきの下は絶えずぬらぬらと濡れ続けていた。その感触が不快だった。

まだイベント会社を辞める決心はついていなかった。だが、そうなる予感もあった。味の変わった赤ワインをまだ妻だった彼女はゆっくりと飲んだ。そして、書類はこちらが出しておくから、とつぶやいた。

あの日からワインを口にしていない。飲みたいとも思わない。離婚届にサインしたあと、どうして一緒に飲むことになったのか、康太にははっきりとした流れが思い出せない。七月になったばかりでもうこんなに暑いなんて、という忌々しさと、酸味だけが増してすっかり風味を失った赤ワインのことだけがやけに生々しく残っている。

母は夕方になっても帰ってこない。新潟駅周辺まで買い物に出かけているのかもしれない。あるいは趣味の俳句に関する用事があるのだろうか。

コーヒーを自分で淹れてみる。フィルターを使うことなんてこれまでほとんどなかった。実家には豆が常備されている。面倒なのですでに挽いてある粉状のものを使う。母の見様見真似でやってみたが、苦みすら感じないほど薄くなった。
意識的にゆっくり味わっていると、酸味と甘みをそれぞれ感じるようになってきた。暇は味覚を過敏にするのだ。自虐的な思いにかられ、もう少し研究してみようかという考えが浮かんだ刹那、ピンキーから連絡があった。古町まで飲みに来い、という呼び出しだ。雑な誘い方だが、用事ができたことにほっとしていた。母に連絡しようか迷ってから、テーブルに書置きを残して出かけることにした。

早めに家を出る。徒歩で向かうつもりだった。ガレージに紺色の自転車があったが、母が使うところを見たことがない。亡くなった父のものなのだろうか。今となっては父が自転車を乗っていたかどうか、その記憶さえ定かではない。
東京では自転車に乗る必要もなかった。かつてこの街に住んでいたころ、よく自転車で信濃川にかかる橋を渡った。雪が降らなければ、冬の間もペダルを漕いで川岸を走った。あの風の冷たさは人生で一番強烈だったかもしれない。

ピンキーに会うのは帰省した日以来だ。ひさしぶりに感じるものの、まだ二週間も経っていない。
指定された待ち合わせ場所は古着屋だった。そんな店が古町通りにあるのか、先日歩いたときには気づかなかった。上古町のあたりを進むと店の前で待機していたピンキーから声をかけられた。この日もアロハシャツ姿だった。プリントされた赤い花が左胸のあたりで鮮やかに咲いていた。(続く)

 

次回(1月29日 掲載予定)

 

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早川阿栗(はやかわあぐり)

新潟県上越市出身、東京都内在住。第105回文學界新人賞島田雅彦奨励賞受賞「東京キノコ」。また、別の筆名で県内の各種文学賞を受賞。

 

 

 

 

 

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