【新潟県長岡市】農家から商家へ、経済界そして政界へ 日本人の精神にも影響を与えた野本互尊、その生涯を知る
2022年10月24日、新潟県長岡市ゆかりの偉人・野本互尊(恭八郎)の誕生から、ちょうど170年を迎えた。地元では顕彰会が起ちあがるなど、野本互尊の活動を後世に伝えようとする動きが活発化している。
野本は、豪農の出身から商家へと婿養子となり、第六十九国立銀行取締役、長岡電燈会社取締役、新潟県会議員などを歴任し、「自分を尊ぶように他人を尊ぶことが幸福な社会の実現へと繋がる」とした独自の「互尊思想」の提唱・普及などをしている。野本互尊という人物は、当時の長岡の人々にとってどのような存在だったのだろうか。また長岡の街にどのような影響を与えたのだろうか。彼の生涯を振りかえつつ、改めて考察してみたい。
野本は、1852(嘉永5)年、現在の新潟県長岡市小国地域にあたる上山(かみやま)藩分領の大庄屋・山口平三郎と母・トセの間の四男として生まれた。兄には、実業家・政治家の山口権三郎がいる。幼少の頃は、当時越後でも名門だった三余堂という家塾に入塾し、藍澤朴斎の元で学んでいる。その後、上山藩の藩校明新館支館に入学した。
1872(明治5)年、20歳になると、長岡の豪商・野本家の婿養子となり、同家の跡を継ぐことになる。当時の長岡は戊辰戦争敗戦後の傷が未だ癒えぬ最中で、戦後復興という大きな課題を抱えていた。士族と町人がお互いに派閥を作り、しばしば対立を生んでいた。当時の野本家は、不動産業と貸金業を生業としていた。一家の主人は養祖母のひで、それに次いで、妻となる長女リイ、妹のリツという女所帯の中での、唯一の男子となった。農家からやってきた互尊は、今まで自分が育ってきた環境と、全く異なる環境の中に身を置き、商人としての道のりを歩んでいくことになるのである。
1880(明治13)年、兄の山口権三郎と組み、「誠之社(せいししゃ)」という商工人の集まりを組織化した。名前の由来は「誠は天の道なり、之を誠にするは人の道なり」という言葉からで、「誠を大義とした健全な商売人の集団」を目指した。同年12月15日の夜、第六十九国立銀行の設立総会では、「貨幣の流出を抑えて、国産品を製造し輸出を奨励する」という宣言の一部に、当時輸入物を扱っていた唐物商の岸宇吉が激しく反発した。このとき野本は、当時長岡商人の代表格として影響力を持っていた岸に対して、自らの商売のことだけを考えるのではなく、どうしたら自国の産業が盛んになるのかを考えるべきだと主張し、交通機関の発達と鉄道の誘致を提案した。この提案に対し、岸は素直に賛同し、長岡における殖産興業への最初の足がかりとなった。
明治20年代、士族の中心的人物であった三島億二郎が北海道開拓に傾注し、商人の若手層の中心的立場を担った大橋佐平は東京へ移住すると、長岡の人々の精神的な支えとなるリーダーが不在となり、次第に人々の間に閉塞感が漂うようになる。そのような中、当時長岡の経済研究団体であった「三夜会」の場で、「これからは自らの考え無しであってはならない。考えるだけでなく、お互いに実践していかなければならない」と演説した。先人から多くの志を受け継いだ野本の演説に、広井一や渡辺藤吉といった当時の若手経済人が感化され、その後の長岡経済界発展の精神的な拠り所となっていったという。
1915(大正4)年5月には、大正天皇即位の大礼を祝う記念事業として、図書館を寄附及び、その経営も長岡市に任せたいとの旨を市長に申し入れて承認された。図書館は、かつての三島億二郎の邸宅があったところで、現在の長岡グランドホテルのあたりに、建設された。この頃に野本が語った言葉として、「わたしは図書館を寄附したのではない。互尊文庫を寄附したのである」というものが残されている。図書館を自らが提唱した「互尊思想」の修養の場として位置づけ、世の中に互尊思想を広めるための場としていたようである。このことから、図書館の名前も「互尊文庫」とされた。1918(大正7)年6月8日に「互尊文庫」は開館し、それまで長岡市内にあった市立図書館の閲覧数が1万人を超えたことがなかったのにも関わらず、同「文庫」が開館した年には、5万人を超えたという。子ども、高齢者、産業人、学生、女性達が足繁く通った。また、同「文庫」では、講演会なども開かれ、長岡市民の文化活動の一翼を担った。
1934(昭和9)年、野本によって「日本互尊社」が設立した。前年に大病を患ったため、夫人と相談して、全財産を投じたという。同「互尊社」は、野本が提唱した「互尊独尊の思想」を後世に伝えるための組織である。互尊の財産を継ぐべき子どもは6人とも早世し、継承させるべき家族はいなかったという。
野本が与えた影響は、単に長岡だけに留まらない。明治天皇を深く尊敬していた彼は、明治天皇の誕生日を祝日にすることを主唱し、これが現在の「文化の日」の制定にも繋がっている。また、富士山に国立公園の設置を、帝国議会に建議するなど、日本精神の形成にも、影響を与えている。
「野本互尊は、三島億二郎のように多面的・横断的に活躍した人物。長岡の経済、教育、政治など様々な分野で貢献した。(このような人物は)当時としても珍しかったのでは」と長岡市立中央図書館文書資料室の田中洋史室長(50歳)は語る。田中室長によると、「(野本は)生前から“互尊翁”と呼ばれ、銅像も建てられた。人々の尊敬を集めていた」という。
また、田中室長は、晩年、野本互尊が「互尊文庫」や「互尊社」に自らの財産を投じていることについて、単に継がせるべき子どもがいなかったというだけではなく、「当時の人たちのなかには、集めた財や冨は、社会にお返しするという発想があったのではないだろうか」と考察する。
現在、日本の哲学界では、西田幾多郎による「西田哲学」をもって、日本人による最初の近代的な独創的哲学とされている。西田哲学の結実ともされているのが、1911(明治44)年に上梓された『善の研究』である。この年、野本は既に60歳を迎えており、ちょうど、富士山に国立公園を設置するように帝国議会に建議している年である。野本が提唱していた「互尊思想」は、西田哲学よりも早い時期、あるいは、百歩譲ったとしても、西田と同時期に生まれた哲学と考えることができる。そのように解釈するのならば、野本の「互尊思想」こそ、日本人による初の近代的な独創的哲学といえるのではないだろうか。そうであるのならば、野本互尊という人物は、もっと、より多くの人たちによって知られてもよいのではないだろうか。