【連載小説】「シェアハウスの幽霊」第7回 早川阿栗・作

 

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新潟市中央区のやすらぎ堤

 

第7回

 

朝の散歩は十月に入ってからも続いている。康太は季節の流れに敏感なタイプではなかった。特に東京で暮らしている間、四季を愛で、その移ろいに心動かされた記憶はほとんどない。

川岸を歩くようになり、天候によって聞こえる鳥の声が違うことに驚く。ほんのわずかに時間がずれるだけでも変化があるのかもしれない。しばらく雨とは縁がない天気が続くが、朝の川岸は足元が湿っている。踏みしめるとやわらかい草がその形態を崩す。一歩ごと、水が染み出す感触を足の裏で確かめる。

鳥たちは茂みに隠れている。その姿はたいてい見えない。ただ声を耳にするだけだ。それは裏庭のコンポーザーが鳴らす、きゅうきゅう、という音とも違う。夕方にはどんなさえずりが聞こえるのだろうか。だが、その疑問を確かめるため、日が暮れてから改めて川岸に出かけるまでのことはしない。

やすらぎ提という名の通り、そこは近隣住人にとって憩いの場所だ。朝からすれ違う人も少なくない。中には挨拶をしてくるものもいるが、康太は自分から積極的に声をかけない。往きは川の流れに逆らって歩く。帰りは右脇のゆったりとした動きと並んで進むためか、どうもペースが狂う。まだその感覚に慣れていない。往復の間、何度か紫色のジャージを着た長身の女性に追い抜かれる。キャップの後ろからハーフアップにした明るい色合いの髪がのぞく。彼女は康太とすれ違い、そして追い抜
くたび、声をかけてくる。

「おはようございます」

遅れて挨拶を返すが、パープルのジョガーはすでに声の届かないところまで進んでいる。まとめられた髪が朝日の反射で鈍く光りながら、上下する。

康太は、コミコミ、とシェアハウスの略称を舌の上で転がすようにくり返していた。古民家シェアハウスについてずいぶん話をしたものの、まだ実感がわかない。架空のシェアハウスを浮かべ、そこでの暮らしを想像しただけで、どうもぴんとこない。ピンキーとの約束もリアルさをもって迫ってこない。もっと身近に感じるため、英単語を叩き込むようにシェアハウスの名を連呼する。

東京を去って二週間以上が経った。今でも板橋のアパートの様子が頭にちらつく。コーヒーの空き缶や脱ぎっ放しの衣類などで荒れた部屋、そこから康太はまだ遠く離れていない。妻と暮らしていたマンションも同様だ。さまざまなイメージが混ざり合い、明滅する。自らが何を手に取ろうとしているのか、そもそもそれが眼前にさらされているのかどうかもわからなくなる。コミコミ、コミコミ、と唱えながら一歩ごと、草の上を進む。鳥の声はもう聞こえてこない。

散歩から戻ると、母はヨーグルトの仕込みを終えていた。ガラスの容器に盛りつけ、ナッツやプルーン、それにはちみつを加える。カットしたグレープフルーツやオレンジが入っているときもある。

数日前からヨーグルトの量を半分ほどに減らしてもらった。それでも便通は快調だし、昼近くまで空腹を感じない。常に母は大盛りにして食べる。

そのあとでコーヒーを飲む習慣も続いていた。子供のころから使っているマグカップはまだ健在だ。修学旅行の土産だが、康太専用となった。京都のどこかで買ったもので、新選組のキャラクターが描かれている。

「味、前と違うんだけど、わかる?」

すでに半分以上飲んでいたが、よくわからない。ブレンドの割合が変わったらしい。前のほうがよかったんだけど。そう言いながら母はカップを口に運ぶ。黒くてシックなタイプで、同じ色合いのソーサーも必ず一緒に用意する。

康太はコーヒーを多めに含んで、ゆっくりと味を確かめる。やはり違いがわからず、首を振る。母はなぜかうれしそうな表情を浮かべる。

「昔は、こんな苦いものが絶対身体にいいわけがない、って、あんた、よく言ってたよね、覚えてる?」

いつごろのことなのか、少しも心当たりがない。母はしばらく黙っている。康太のカップが空になる。酸味がやわらかくなったのではないか。ようやく味の変化を自分なりの語彙で推測することができた。ただ、結局それを伝えなかった。

「帰らない白鳥、どうなったか知ってる? 知らないか」

いきなり母が別の話題を口にする。そして夏が過ぎても一匹だけ湖に残り続ける白鳥の話を始めた。(続く)

 

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早川阿栗(はやかわあぐり)
新潟県上越市出身、東京都内在住。第105回文學界新人賞島田雅彦奨励賞受賞「東京キノコ」。また、別の筆名で県内の各種文学賞を受賞。

 

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