【好評連載】「シェアハウスの幽霊」第10回 早川阿栗・作

信濃川から朱鷺メッセを望む(新潟市)

 

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第10回

スマートフォンを取り出し、朔美宛てのメッセージを打つ。一度消した文章を改めて記すだけなので、淀みなく書き終える。テーブルの端には商品案内のアクリルスタンドが立っていた。タンザニア産の豆がおすすめらしく、国旗もプリントされてある。黒や緑、黄色と青を取り合わせたその模様をはじめて見たような気がした。異国の遠さになぜだか急に悲しくなった。今度、この店に寄ったときには飲んでみようと思った。母のコーヒースタンドでも扱っているかもしれない。

いくつかの誤変換を直し、さらに文章を書き加えてから、勢いよくタップした。康太のぼんやりとした思いは朔美のもとに送り届けられた。画面をしばらく眺めていたが、いつまで経っても既読にならなかった。あきらめてスマートフォンを置き、鎌倉のガイドブックを手に取る。アップに写る大仏の顔が想像以上に怖かった。

朔美からのメッセージは深夜に届いていた。早朝の散歩へ出かける前に内容を確認する。

「白鳥を探しに行きませんか」

康太はこのような誘いの文言を添えていた。シェアハウスの件について話したい、そして東京から戻って来た先輩としてのアドバイスを聞きたい、という旨は率直に伝えた。その上で、母が話していた鳥屋野潟の帰らない白鳥のことを思い出し、メールを送る寸前に書き足した。
「白鳥のニュース、実はわたしも気になってた」

返信はこの一文で始まる。一語一語の音の切れがよく、少し低めの朔美の声をイメージしながら、康太はくり返し読んだ。
鳥屋野潟公園で二人は待ち合わせる。メールを送ってから三日経った平日の午後だった。康太は市役所前から女池線のバスに乗り、科学館前で降りた。

東京で暮らす分には車を必要とする機会がほとんどなく、免許を取得しないままこの年齢になってしまった。新潟に戻ってからも行動範囲が狭いので、今のところ特に不便を感じていない。

バス停のすぐそばに朔美が立っていた。中高生のデートめいた落ち合い方に、相手の姿を目にした途端、無性に恥ずかしくなった。同時に、朔美の実家が青山付近だったような記憶がこの段階になって思い起こされた。もしそうなら、もっと手前から一緒に行ってもよかったかもしれない。

軽い後悔とそれに伴うどぎまぎとした感情が混ざり、揺らぐ。そんな感覚もずいぶんひさしぶりだった。

「めちゃくちゃひさしぶりに、ここ来たよ」

朔美はグレー地にチェック柄のジャケットを羽織っていた。赤い格子の線が鮮やかで、一方、中に着たワンピースのピンク色は春の花のように淡い。頭に被っているのは前と同じターコイズ色のサマーニットキャップだ。
康太は前日に古町で買ったシンプルなトレーナーを着てきた。クリーム色の生地で、胸元に潰れた英字がプリントされている。緑色のそのロゴはおそらく、「Midnight City」と書いてある。

朔美がじっと見つめ、その英字を慎重に読み上げる。語尾が上がり、疑問調になる。二人そろって笑った。康太は「でいご」のすぐ近くの古着屋でこのトレーナーを手に入れたことを話す。

「康太くん、高円寺に住んでたんだよね」

朔美が沖縄料理店の名前を口にした。高円寺にはその系統の店がいくつかあり、康太もしばしば訪れた。以前、朔美は荻窪に住んでいて、高円寺にもよく出かけたらしい。浪曲師と結婚して娘を産み、そして別れた、という事実が大きすぎて、それ以外の東京の生活について康太はほとんど知らなかった。

「ちょっと北島くんに悪いんだけどさ、絶対、でいごよりもおいしいよね、サーターアンダギーもやっぱり全然違うよね、本当に北島くんに悪いな、って思うんだけどさ」

なじみの店の話でひとしきり盛り上がり、ゆったりとしたペースで歩く。いよいよ空は青く、やわらかく暖かい日差しが園内を照らす。子供のころ、康太は鳥屋野潟まで滅多に来ることはなかった。それでも具体的に何なのかはよくわからないが、漂う匂いがひどくなつかしかった。

科学館の裏を通り、迂回しながら水辺へと出た。波はあまりにも小さく揺れる。おだやかな湖面に注ぐ陽光が跳ね返るようにきらめく。しばらく黙って周りを見渡す。白鳥の姿は見つからない。

「ねえ、全然いないんだけど」

朔美はなぜかうれしそうに笑う。温い風が吹いて、サマーニットキャップからこぼれる毛先を小さく揺らした。

(続く)

 

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早川阿栗(はやかわあぐり)
新潟県上越市出身、東京都内在住。第105回文學界新人賞島田雅彦奨励賞受賞「東京キノコ」。また、別の筆名で県内の各種文学賞を受賞。

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