【好評連載】「シェアハウスの幽霊」第11回 早川阿栗・作

鳥屋野潟湖畔

 

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第11回

 

自動販売機で飲み物を買ってから、湖畔のベンチに腰かける。二人の間に缶コーヒーと緑茶が並べられた。最近、挽いた豆で淹れたものばかり飲んでいるせいか、ねっとりとした甘さが口の中のあらゆるところに引っかかるように残る。その感触が不快で、康太は何度もつばを飲み込んだ。朔美は一度、口をつけたきり、大事そうに両手で缶を包んだまま、おだやかな湖面を見つめていた。

お互いの家がそこそこ近いのではないか。バスを降りてから、それに気づいたことを康太は話した。大学時代に再会した際にも、同じような話題が上がった記憶もその瞬間に思い返した。そのとき朔美は、関屋だけど青山寄り、というフレーズを使って自宅の位置を説明した。当時の長い髪型や、ひどく痩せていた姿が生々しくよみがえる。

そろった前髪に低い角度で秋の陽光が当たる。薄い色がさらに透き通るくらいに輝く。
「帰って来てびっくりしたんだけどさ、かなり海近いよね、わたしたちの実家って」

朔美はそのまま海の話を始める。今以上に強い風が吹いたら、かき消されそうなほどの声のボリュームだった。それは康太の冷えた耳の端を温めるように響いた。

実家に戻ってから、朔美はほぼ毎朝、関屋浜に歩いて出かける。波打ち際のぎりぎりまで近づき、日本海に向かって発声練習をする。それは今や必要なくなったものだ。

曲師として、合いの手を入れるかけ声が何よりも苦手だった。根本的に向いていないのか、空気が喉にひっかかり、ざらついた声になってしまう。師匠にも何度となく注意された。手本を示されても、一向に改善されなかった。

曲師は舞台に上がるときには衝立で姿を隠して三味線を奏でる。浪曲師の節と啖呵と呼ばれるセリフ回しを引き立てなくてはならないのに、このままでは自分のかけ声ばかりが目立ってしまう。稽古を続けたものの、上達の兆しは見られないままだった。

離婚のあとは一度も三味線を手にしていない。舞台に上がる夢も叶わなかった。それでも実家へ戻ってきてから、朝、ひと気のない砂浜に出かける。何も持たず、ただ声を発するだけだ。相変わらず、なめらかな音とはほど遠い。師匠から、足を引っ張る、と言われた癖の強い特徴ばかりが目立つ。自分でもそれがわかるし、ますます下手になっている気もする。

けれど、朝の練習を止めることはない。雨の日でも居ても立っても居られずに、浜へ出ることもある。

もしかして悔しいのかもしれない。芸事全般に対してなのか、別れた夫に対してなのか、あるいは別のものなのか、見返してやりたいという気持ちが解消されていないのだ、と思う。沸き立つ感情の正体も不明だし、そもそも見返すような機会自体が失われてしまった。

自己嫌悪に陥りながら発すれば尚のこと、声はぶれる。ネガティブな感情はさらにうねり、離れて暮らす娘に対しても申し訳ない、と思ってしまう悪循環に陥る。

「だいたいこんな感じで、わたしの朝って始まるんだよね、ここ最近」

朔美はようやく2口目の緑茶を飲んだ。新潟に戻ってから思っていることを知りたい、と事前に送ったメールを踏まえて、このような話を聞かせてくれたのだろうか。康太は曲師についてもよく知らず、かけ声うんぬんに関してもぴんと来ていない。それでも朝の日本海を前に立つ朔美の姿だけはリアルに想像できた。

白鳥ではない焦げ茶色の鳥が水面に降り立ち、すぐさま飛んでいった。朔美が話している間にも何度となくその光景を目にした。それが同じ鳥なのか、そもそも同種なのか、区別がつかなかった。湖面はしばらく乱れ、やがてまた落ち着く。平穏は新たに鳥が着水するまで続いた。

「やっぱり白鳥、全然見当たらないよね、もう帰っちゃったのかな。でもケガが治って飛び立ったにしても、それで本来戻るべき場所に戻れたとしても、一人だけ遅れてみんなの前に現れたところでさ、めでたしめでたし、って感じにならない気がしない? もういろいろなことが元通りにいかなさそう、って思えちゃう」

一人だけ、という言い方が意図的なものなのかどうかわからない。尋ねようとも思わなかった。

缶の中身を半分まで減らしたものの、康太はこれ以上飲み切れなかった。朔美もほとんど手をつけていない。2人がほぼ同じタイミングでベンチに缶を置いた。コーヒーのプルタブは完全に倒れ切らず、中途半端な状態で斜めに立っている。

(続く)

 

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早川阿栗(はやかわあぐり)
新潟県上越市出身、東京都内在住。第105回文學界新人賞島田雅彦奨励賞受賞「東京キノコ」。また、別の筆名で県内の各種文学賞を受賞。

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