【好評連載】「シェアハウスの幽霊」第13回 早川阿栗・作
第13回
家に母はいなかった。パートの時間はとっくに終わっているはずだ。康太はキッチンの電灯をつけてコーヒーを作る。砂糖もミルクも入れずに飲む。今ではブラックのほうがしっくりくる。缶コーヒーの甘ったるい余韻はすっかり消えた。朔美と会っている間に感じていた微熱めいたものも治まりつつある。
強烈な空腹が意識を支配し始めた。それでも自分で作ろうという気持ちにはならない。母が戻ってくる気配もない。
何でもいいからデリバリーを頼もう。食欲を満たしたい気持ちが加速する。胃がぐるぐると鳴り続け、音は止まらない。新潟にも東京のようなサービスがあるのか、どれだけの店舗が加盟しているのか、把握していない。ひさしぶりに専用アプリを立ち上げる。登録済みの住所を変更してから注文可能な店を検索する。その間も腹の中はさわがしい。たっぷり淹れたコーヒーを飲んだところで静まりそうにない。
東京ではフードデリバリーをよく利用していた。高円寺の会社に運んでもらうことが多かった。
コロナ禍のはじめの混乱下において、企画運営を手がけるイベントはすべて白紙になった。オフィスに滞在する時間だけが増えた。リモートワークは、家族経営に近い実態の会社では、ほぼ意味を持たない。現場へ出かける機会は失われ、ひたすら事務所で過ごす。伝手を頼りに何とかもらってきたとしか思えない、およそ異業種に近い細かなデスクワークに夜遅くまで没頭していた。
飲食店の営業も不安定で、さまざまなデリバリーサービスが広がり始めた時期だった。社長の義兄の一言をきっかけにメニューの吟味が始まる。経費で払ってもらったり、各自の注文分をその場で請求されたり、割合は半々だ。一通りのジャンルを網羅したあと、定番は中華料理に落ち着いた。
妻の伯父や、義兄の結婚相手の親戚も何人かが社員として働く。彼らとオフィスの机に容器を並べて、休憩がてらにチャーハンや餃子、エビチリ、チンジャオロース、天津丼や五目炒めなどをよく食べた。
何を食べても特別おいしいという感慨を受けた記憶はないが、その光景がなつかしかった。状況も場所も以前とはまるで違う。そもそも会社からの注文では康太がアプリを使うことはほとんどなかったため、ひさしぶりの一人での操作にやたらと手間取った。
新潟市内でも店の選択肢は多かった。かつては出前といえば、ラーメンかピザ、それに寿司くらいしかなかった。高校と大学に合格したどちらのタイミングでも父は寿司屋から出前を頼んでくれた。鉄火巻きのわさびが辛くて、康太は二度とも同じように涙ぐんだ。父がそれを笑った。もう大人になるんだから。高校入学祝いのときのセリフが、大学の際には、もう大人なんだから、と少しだけ変わった。
んな思い出もよみがえり、スマートフォンを動かす手が一瞬止まった。今でもわさびはあまり得意ではなかった。
無難にピザを注文する。半分残しておけばあとで母も食べるだろう。「キノコとチーズとミート、そしてシーフードのすべて」と挑戦的な宣伝文句のついた期間限定の種類を選ぶ。
出前が届くまでの様子をアプリで眺める。拡大された市内の地図上を自転車のマークが点々と移動する。到着予定時刻が早まったり、少し遅れたり、ときどき揺れ動く。空腹感の暴力性はさらに増していく。冷蔵庫を開けて中身を確かめる。カスピ海ヨーグルトの瓶を一度手に取るが、そのまますぐに戻す。
母とピザ、どちらが最初にやって来るだろうか。軽い混乱と共に「今どこ? 一応、夕飯、ピザ頼んだけど」とメールを送った。母からの返信は届かなかった。
裏庭でコンポーザーのきゅうきゅうという音が響いた。母は父がいなくなってから一人でこれを聞いていたのだ、と改めて思った。
先にピザが届いた。配達員は母と同年代くらいの女性だった。アプリ上で後からチップを送る。受け渡しに関する評価も促される。親指を上げているのか、下げているのか。二つ並ぶアイコンの違いが、一瞬、よくわからなくなった。
宣伝が過剰としか言いようがないほど、具材の量も種類も少なかった。ただ、やたらとおいしく感じられた。何層か重なり、そこにチーズも挟まれている生地に感動すらした。最近のピザはここまで進化しているのか、という驚きもあった。あっという間に半分平らげてしまう。飢餓感が消失したあとも腹はしばらく鳴り続けた。
(続く)
【シェアハウスの幽霊 各話一覧】
早川阿栗(はやかわあぐり)
新潟県上越市出身、東京都内在住。第105回文學界新人賞島田雅彦奨励賞受賞「東京キノコ」。また、別の筆名で県内の各種文学賞を受賞。