【好評連載】「シェアハウスの幽霊」第14回 早川阿栗・作
第14回
康太の猛烈な空腹が落ち着きを見せたころ、母がようやく帰宅する。
「あんた、今日、万代にいた? レインボータワーがあった、あのあたり」
顔を合わせるなり、いきなり尋ねられた。午後三時過ぎごろ、よく似た姿を見かけたらしい。その男は一人でぼうっとするように空を見上げていた。母が声をかけようか迷っているうちにどこかへ行ってしまった。
その時間帯には鳥屋野潟を訪れていたこと、白鳥が見つからなかったことを話す。母はひどく落胆した表情を見せた。誰かを康太と見間違えた件、白鳥がいなかった件、どちらの理由によるものかはわからなかった。それ以上、何か言及する様子もない。
母は康太からのメールに気づいていなかった。ピザがあることに驚き、わあ、と小さく言った。どこで何をしていたのか、康太は尋ねない。母もまたかなりの空腹だったようだ。滅多に見られない荒々しい所作でピザにかぶりつく。
「これは何味?」
正式な名称を忘れた康太は注文履歴を見返す。「よくばりさんのごほうびスペシャルピザ」とゆっくり読み上げる。キャプションの「キノコとチーズとミート、そしてシーフードのすべて」という言葉もつけ加える。母がまた少し悲しそうな顔つきになり、ひとさし指についた生地の欠片をなめた。
「レインボータワーのところで見かけたんだけどね」
ピザを食べ切ったあと、母がくり返した。他人の空似だろう、と康太は答える。そんな言葉を使うなんて我ながら意外だった。地元の町をドッペルゲンガーが歩き回っているイメージが浮かぶ。だが、むしろ急に現れたのは自分のほうなのだ、という視点に立ってしまう。
生地の欠片が挟まったらしく、母がつまようじで歯の奥をつつく。なかなか目的が果たされないのか、しばらく続ける。
本屋で買ったガイドブックがリビングに放置してあった。母が今ごろになってそれに気づく。鎌倉? とつぶやき、ぱらぱらと眺める。
「あんた、昔、父さんと三人で大仏見たこと覚えてる? まだ小学校に上がる前だったと思うんだけど」
まるで覚えていない。鎌倉方面を訪れた記憶が一つもなかった。何か、先々の楽しみの一部を奪われたような気がした。
思わず、今度一緒に行こうか、と誘った。二人で? と母が真顔で尋ねる。しばらく間を置いたにもかかわらず、まあ、そのうち、というか、いつか、とたどたどしい言葉運びで答えてしまう。母が笑う。
「そうだね、それもいいかもね。ああ、知ってる? 鎌倉の大仏の中って入れるんだよ」
持っている知識をなんでも教えようとする子供みたいな言い方だった。先ほどとは異なる表情で母が笑みを浮かべている。
長い一日だった。夜、ベッドで横になりながら康太は朔美に長いメールを打った。鳥屋野潟に出かけたのは数日も前のように思えた。
離婚に至った経緯を書き連ねる。時間の流れに沿って表そうとしても脈略がない。新潟にいることにもつながりがあるのか、よくわからなくなる。ぽつりぽつりと思いつくままに打つ。途中で送信しないように、メモ機能を使いながら綴る。数行進めては削った。さらにまた何行か消して新しく文章を足す。遅々たる歩みだった。朔美は伯母と何を食べたのだろうか。途中で、ピザを頼んだことや、奇をてらったような宣伝文句もまた書き足す。母に聞かせたらまるでぴんときていなかったことも記した。
気がつけば朝方になっていた。長いメッセージはまだ送らない。再読したらきっと全て消去してしまうだろうと確信できた。
昼過ぎまで眠ったのは帰省してからはじめてだった。母はすでにパートに出かけているようだ。小分けにされたヨーグルトを食べる。テーブルに観光ガイドが開いたまま置いてあった。康太はやはり鎌倉のことをまるで知らない。いくつかの観光スポットの紹介を眺めても、過去に出かけたらしい家族旅行のことを思い出せなかった。母はきんつばの店を黄色の蛍光ペンで囲っていた。
朝の散歩の習慣が途切れたことで、どこかほっとしていた。それでも外に出て、いつもとは反対方向へ進むように川沿いを歩こうと思った。
出かける前にメールを朔美に送った。読み返すことなく、ただ送信ボタンを押す。なぜか離婚届をもう一度提出したような思いになった。
(続く)
【シェアハウスの幽霊 各話一覧】
早川阿栗(はやかわあぐり)
新潟県上越市出身、東京都内在住。第105回文學界新人賞島田雅彦奨励賞受賞「東京キノコ」。また、別の筆名で県内の各種文学賞を受賞。