【コラム】時代を駆けた熱き精神(こころ)「熱血のマルチ人間 ”平出修” の軌跡」
“柳には赤き火かかりわが手には君が肩あり雪ふる雪ふる”
この情緒溢れる詩は、新潟市中央区西堀にある「平出修」の歌碑の碑文から。(添付写真の通り)
新潟市石山に生まれた( 1878年(明治11年))「平出修(旧姓 児玉修)」は、地元で代用
教員として務めた後、高田の平出家の四女・ライと結婚、養子に迎えられ、その後上京し書生をしながら明治法律学校(現 明治大学)を卒業、翌年弁護士登録の後に開業した。
弁護士としては、もっぱら明治時代の一大疑獄事件といわれる「大逆事件」の弁護人(弁護士)として知られているが、実は、歌人・作家という一面もあり、このようにロマン溢れる詩も数多く残している。
歌人としての「修」は、石川啄木や与謝野鉄幹・晶子などの盟友で文芸雑誌「明星」の同人として明星派の人々と親しく付き合ったほか、同誌の経理担当として雑誌の発行に尽力した。「明星」の終刊後には、与謝野晶子とともに「スバル」の創刊に携わり、またスポンサー・社主として発行に当たった。
短歌のほかにも小説家としては「大逆事件」を扱った「逆徒」や当時の農民の窮状を描いた「夜烏」などの著作が残っている。
また「大逆事件」では鉄幹から弁護を依頼された医師 大石誠之助の公判に臨み、森鷗外から社会主義などについての指導を仰ぐなど、鴎外から学んだ知識を駆使して法廷で熱弁を振るったと今に伝えられている。
残念ながら「修」の弁論にも拘わらず「大石誠之助」は極刑を免れることはなかったが、戦後の研究により裁判での冤罪が認められ、2018年1月には新宮市の名誉市民に認定されている。
このようにして明治~大正時代に歌人・作家としては文芸面で、また弁護士として法廷でさらには出版社経営者として多方面で活躍した。
30代半ばで惜しまれながら早世してしまったが、没後の検視でその体は全身が結核に侵されていたことが判明し「よくこんな体で。」と医者が驚くほどであったと伝えられている。
葬儀には、特に付き合いも無かった「夏目漱石」も参列していたと言われ、その人柄の一端が垣間見られる。
そのような「平出修」であるが、その才能・功績・人柄などに十分な評価がなされているとはどうも思えない。
その理由として考えられるのは、一つは「修」が30代半ばのまだこれからという時期に早世してしまったこと。また、生まれは新潟市だが上越市の平出家に養子に入っていること。さらには「大逆事件の弁護人」としてのイメージが強過ぎ全体イメージが散漫になっていることなどに依るのではないかと考えられる。
太平洋戦争後80年になろうとしている昨今、我が国の置かれている内外の世情はまさに混沌を極めているように察せられる。
このような時期にあって、明治から大正の時代を疾風のごとく生き抜いた「平出修」の実像に今一度光を当て、その光の中に現在の日本を浮かび上がらせることは、現時代を生きる人間としての責務ではないかと確信している。
(にいがた経済新聞社・近藤敬)