【好評連載】「シェアハウスの幽霊」第15回 早川阿栗・作

新潟市中央区のやすらぎ堤

 

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第15回

 

午後のやすらぎ提を歩く。信濃川の流れに沿って進む。朝の散歩とは違い、ジョギングをしている人の姿はほとんど見かけない。学校も会社もとっくに始まっている。幼い子供を連れた母親か、老人たちがそれぞれのスピードで歩く。康太が追い抜かれることも前方の誰かに追いつくこともほとんどない。ときどき自転車だけが通り過ぎる。川岸に潜む鳥の声は聞こえない。

無目的で外に出たものの、さほど迷う間もなく、母のコーヒースタンドに立ち寄ってみようという方針は固まった。

陸上競技場近くで川岸から離れ、敷地周りを沿うように歩く。白山神社の脇を抜ける。店は東中通り沿いにあると聞いていた。詳しい場所までわからず、道路の両側を注視しつつ北上していく。慎重に周囲の様子を観察しているため、進むのがやたらと遅い。暇の極みだ、と康太は思う。

ベーグルの店を見かけた。看板にはコーヒーカップのイラストも描かれてある。じっくりと店内を観察する。イートインスペースも設けられているようだ。ユニフォームの一つなのだろう、赤いサンバイザーをかぶった店員が声をかけてきた。

「ブルーベリーやパンプキンやさつまいも、いろんな味わいの生地がありますから、きっとお好みが見つかるはずです」

言い慣れているのかどうかもわからない独特な言い回しだった。康太は視線を上げて、ここはコーヒースタンドですか? と尋ねる。

「はい、ベーグルは焼き立てです」

店員がおよそ正確な答えとは言えないような返事をする。母の姿は見当たらず、豆を選べるほどのコーヒーの種類もない。

すみません、また来ます、とことさら大きい声で伝えて立ち去る。先ほどまで気づかなかったが、反対側に緑色を基調とした外観のコーヒーショップが見えた。横断歩道がすぐ近くになく、引き返してから通りを渡る。

歩道沿いに店のカウンターがあり、母が立っていた。奥の細長い空間で飲むこともできるが、食べ物はサンドイッチとクッキーくらいしかない。それでもさまざまな豆が陳列されている。

あら、と母が言う。来ちゃった、と答えたあとで康太は恥ずかしくなった。ごおお、と血液が勢いよく流れる音が聞こえそうなほど、耳が赤くなっていることが自分でもわかった。タンザニアの豆ってある? 古町の喫茶店のことを思い出して聞いた。わざわざケースを確認せずに母が首を振る。

普段、家で飲んでいるブレンド以外を買うつもりだった。豆の名前と苦みや酸味、コクなどをグラフにしたチャートを眺める。母は黙り、ほかの客はやって来ない。コスタリカという言葉の響きがやたらと気になった。

「コクがあるし、甘みが特徴的だと思う。苦みも控えめだけれど、邪魔しない感じでおいしいよ、何、淹れてくれるの?」

母が笑う。豆を計量してもらっている間、今度、朔美と会うときに渡すものも買おう、と思った。作業を続ける母におすすめを尋ねる。

「プレゼント用なら飲みやすいのがいいかねえ、ナチュラルブレンドとか」

母は手を止め、真剣に考え始めた。カウンターを挟んで向かい合っていると、ひどく変な感じだ。パート中の母にまだなじめない。

かつて母は裁判所で書記官をしていた。ときどき、ローカルニュースで裁判前の法廷の様子が流れ、裁判官の手前に座る母が映った。それが康太にとって、働く母の姿だった。

そのときとは違い、白い制服を着ている。先ほどのベーグルの店なら、赤いサンバイザーをかぶるのだろう。余計に違和感が強まった。なつかしいのか、おかしいのか、さみしいのか、よくわからなかった。

勧められるまま、ナチュラルブレンドを挽いてもらう。コスタリカの豆と一緒にまとめた薄いオレンジ色の袋を受け取るとき、康太と母の指先がぶつかった。二人は笑いも驚きもしなかった。

香ばしく甘い豆の香りがふわりと漂ってくる。ありがとうございました。普段、家では聞けないようなはきはきとした母の声が通りに響いた。

いよいよ目的はなくなり、古町通りにでも足を伸ばしてみようかと思ったところで朔美からメールが届く。出がけに送った長いメールをもう読んだのだろうか、と中身を確認する。

「南家福心が、新潟に、来る」

別れた夫だと気づくのに時間がかかった。挽きたてのナチュラルブレンドの香りはさらに濃さを増して周辺を漂う。

(続く)

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早川阿栗(はやかわあぐり)
新潟県上越市出身、東京都内在住。第105回文學界新人賞島田雅彦奨励賞受賞「東京キノコ」。また、別の筆名で県内の各種文学賞を受賞。

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