彌彦神社境内にある、由来も名前も分からない「某神社」(新潟県弥彦村)
彌彦神社(新潟県弥彦村)。この地を開拓したとされる天香山命(伊夜日子大神)を祀る、言わずと知れた越後一宮。今も地域に親しまれ、また県内有数の観光地でもある同社だが、その境内の森の中で、静かに祀られているとある祠について知っている人は少ない。
祭神も、由来も、名前すらも伝わっていないその場所は、いつしか「某神社(ぼうじんじゃ)」と呼ばれている。
彌彦神社の「一の鳥居」を通り過ぎた先にある駐車場近くは、飲食店やお土産店が軒を連ね、登山道入口も近いことから、連日多くの人が行き交う一帯だ。そこから境内に入ると「車清祓所」があるが、広場をよく見ると木々の間に小径が開いている。
その薄暗い道の先に現れるのが、木製の鳥居と小さな祠──「某神社」である。祠の周りは塚状に盛り上がっており、その足元には長い年月を感じさせる一対の狛犬が控える。彌彦神社の参道から歩いて数分の距離だというのに、深い山奥に居るような静けさである。
「たまに参拝者の方からも質問されるが、我々もあまりお伝えできることが無い」と彌彦神社権禰宜の高橋孝至氏は苦笑い。「某神社」について、彌彦神社に関する書物や弥彦村の村史にも記載はあるものの、多くは語られていない。書かれている内容が分かっている全てなのである。
「『弥彦の神様がいらっしゃる前から居る神様なんじゃないか』、『どなたかを葬った場所なのではないか』……色々な推論を拝見するが、それを証明するような資料はすでにありません」(高橋氏)。
由来だけでなく、記録自体が少ない。明治時代、当時の神社の制度に登録するために彌彦神社では様々な行政文書を制作したが、その中にも「某神社」の記述は無かった。彌彦神社では「某神社」を摂社・末社として位置付けておらず、記載しなかったためである。
そんな「某神社」についての最古の記録は、彌彦神社の歴史や伝承、しきたりなどを問答形式でまとめた『櫻井古水鏡(さくらいこすいかがみ)』に書かれている。
それによると、宝暦(1751年から1764年 江戸時代中期)の初めごろ、彌彦神社を補修するための木材として、「某神社」に生えていたカシの木を伐採した。しかし、その際に木を切った木こり2人が病死。さらにその病気が広まり、多くの神職や地域住民が死亡したという。こうした言い伝えから、「『恐るべし。慎むべし。末代に伝えて必ず過つべからず』と書かれている」と高橋氏は解説する。
なお、同書物が執筆された当時から神社の名前は失伝していた。「某神社」という通称自体も、いつ頃から使われ始めたのか分かっていないという。
現在も、彌彦神社にとっては摂社・末社ではないとする位置付けは変わっていないが、「某神社」でも春と秋の祭は丁重に執り行っている。
高橋氏は言う。「彌彦神社として、『某神社』についての公式見解というのは定めていない。しかし、伝承からも分かるように、とてもお力の強い神様。江戸時代のさらに前の先輩方からの教えを守り、これからも大切にお祀りしていく」。
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筆者は「某神社」へ何度か参拝へ訪れたが、時折その小さな賽銭箱にいくらかの賽銭が入っているのを見かけた。高橋氏によると、御神酒が供えられていることもあるという。地元の人はもちろん、文字通り「神秘」的な存在ゆえ「某神社」を目当てに遠方から訪れる人もいるのだろう。
由縁は失伝して久しいが、人を惹きつけ、真摯に祈る場所であることに変わりはない。むしろ謎に包まれているからこそ、神への畏れと敬意という根源的な感情をより強く再認させられる場所になっているとも言えるかもしれない。
【グーグルマップ 彌彦神社】
(文・撮影 鈴木琢真)