【次回最終回】「シェアハウスの幽霊」第19回 早川阿栗・作

新潟市中央区の萬代橋

 

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第19回

 

母は鎌倉に旅立つ。吟行と称して、俳句仲間と出かける予定だ。横浜や東京にも寄るらしく、数日帰ってこない。浮かれて支度をする母の様子に康太はなぜか照れ臭くなる。一年前に買ったガイドブックは入念に読み込まれていた。ほとんどのページに付箋が貼ってある。

母の留守中、実家に寄らなくてはならない。カスピ海ヨーグルトの仕込みを頼まれていた。母はコーヒースタンドを辞めた。今は離婚調停の参与として、ときどき家庭裁判所まで出かけている。思えば母は、康太の離婚について一度も悲観的なことを言わなかった。

母の代わりに、康太はコーヒースタンドでアルバイトを始めた。入れる日にちも少なく、それだけではほとんど稼ぎにならない。

結局、ピンキーが携わる予定だった「コミコミ」の作業を引き継ぐことになった。残された家族たちでは手に負えず、お鉢が回って来た。

慣れない作業が多い中、朔美と過ごす時間が増えるのはうれしかった。それでもまだ自分の気持ちを持て余している。一度、唇を重ねたきり、それ以上の進展はない。

ときどき、シェアハウスにピンキーの幽霊が現れる、と聞いたことも理由の一つだ。たこ焼きパーティーでひたきが見たものとは別に、朔美もまたこの世ならざるものを目撃する。

「滅多に出てくるわけでもないんだけどね。でも、北島くん、やっぱり無念だったのかなあ、って思う。全然、怖くもないし、こちらのことに気づいている感じもないんだけど」

さらりと朔美が言う。元から霊感があったかのような口ぶりで、そこに戸惑う様子は感じられない。幽霊を見たなんて話をこれまで聞いたことがなかった。

康太はアパートにいるときでも、ピンキーがうろついているのではないか、と想像してしまう。もし姿が見えたとしたら、どんなことを言おうか考えてみるものの、何も浮かんでこない。

ひたきも頻繁に新潟までやって来る。南家福心の公演も増えてきた。そろそろイベントスペースではなく、もっと大きなホールの舞台に立ってもよさそうな頃合いだ。

いずれ話をつけて、康太自らイベントを企画しようというアイデアも浮かんでいた。以前の経験を生かせるに違いない。おもしろい試みになりそうだが、もう少し先の話だ。別れた妻を介して「新潟支部」として会社と連携を取れるようにしておくのも悪くない。

ひたきがシェアハウスの離れに泊まるとき、孝直も呼ぶ。ピンキーの妻の里香も来てもらう。里香とは葬儀後に何度か話すようになった。長身で長髪なのはイメージ通りだった。かすれ気味の声が特徴的だが、淀みない口調で滔々としゃべる。もちろん、里香は深い悲しみの中にいた。

里香が顔を出してくれることで、康太も朔美もずいぶん救われた気持ちになった。もっと多くの時間をピンキーと過ごせればよかった、という思いはいつまで経っても消えない。もっと「でいご」で飲みたかった、もっとピンキーらしい冷ややかな視点から語られる笑い話を聞きたかった。それこそ里香と孝直も交えて、離れで集まりたかった。

ピンキーを語る言葉はすべて過去形だ。それでも里香がいることで、康太の知らない、昔のピンキーと新しく出会える。それは純粋に一つの喜びであり、残されたものたちにとっての慰めだった。

あるいは朔美への思いが強くなっていることに負い目があるのかもしれない。ピンキーが亡くなったあと、気持ちをはっきりと自覚した。どこか申し訳さのようなものを感じてしまう。

それでも康太はすべてを後悔していない。ピンキーの意志を継ぎ、シェアハウスを守る。その言い回しが過剰だとしたら、管理人の朔美を支える。一時的であっても、共に、この場所で過ごす。康太はそう決意した。

母の旅行中、実家に朔美を呼んだ。口づけのあと、短く抱き合う。リビングはいつも以上に静かだった。朔美は厚手のグレーのトレーナー姿だ。細身のパンツは黒く、生地はさらりとしている。管理人として働くようになってから、カジュアルな服装の頻度が増えた。

よそよそしく互いに身体を引き離したあと、裏庭でコンポスターが鳴る。ごみを処理してる音だから気にしないで、と康太は言う。

「何の音?」

朔美はぴんと来ない。何も聞こえていないらしい。この家にも幽霊がいるみたいだ、と思うが、もちろん康太にはその姿が見えない。

(続く 次回最終回)

 

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早川阿栗(はやかわあぐり)
新潟県上越市出身、東京都内在住。第105回文學界新人賞島田雅彦奨励賞受賞「東京キノコ」。また、別の筆名で県内の各種文学賞を受賞。

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