【ついに最終回】 連載小説「シェアハウスの幽霊」第20回 早川阿栗・作
最終回
鳥屋野潟には白鳥が集まっていた。一年前、秋の始まりに訪れたときとは違い、ずいぶんにぎやかな様子だ。すでに冬が近づきつつある。身体を震わせながら、康太は朔美と並んで湖を眺めている。ピンキーの一周忌は数日前に終わった。
「ケガした白鳥って今年もちゃんと戻って来たのかな、いたとしても全然区別できないけど」
白鳥が羽を広げ、湖面から飛び立つ。それにつられる鳥もいる。短い距離を飛び、また着水する。不揃いに水が跳ねる。
ふと気になって、関屋浜へまだ行っているのか、朔美に尋ねる。
「たまに行くんだけど、朝じゃないし、もう練習もしない。ぬいぐるみも落ちてないよ」
朔美は髪を短く切っていた。両耳がのぞくほどの長さで、寝起きはあちこちはねてしまう、とぼやくことも多い。斜めに流れた毛先が低い角度で注がれる陽光で輝く。
朔美の運転でシェアハウスへ向かう。駐車場には管理人用のスペースが設けられてある。最近では康太もバスに乗る機会は減った。
途中、ハンバーグステーキの店へ寄る。康太はレモンソース、朔美はおろし醤油のハンバーグセットを食べた。五年に一度の大サービス中、という文句に引っ張られ、超増量オプションもつけた。おかげでどちらの腹も異常なまでにふくれている。
古民家の玄関で入居者から挨拶される。学生風の若い男だ。両手に赤と青のエコバックを持ち、どちらにも大量の食材らしきものが入っている。
離れに戻り、じゃれ合うように互いの丸くなった腹を撫でていた。それは康太を満ち足りた気分にさせる。それでもどこか落ち着かない。
朔美に頼んでおきたいことがあった。南家福心が新潟で公演するなら、そのイベントの企画運営をやらせてもらいたい。その交渉の取次ぎをお願いしたい。話が進めば、前の会社と関わり、そこで離婚した妻と連絡を取ることになるかもしれない。
肉と脂の匂いが混ざり合った思いを胃の奥から吐き出すように伝えた。うまく説明できた自信はなかった。話しながらも、この考えが正しいのかどうか、迷っていた。ピンキーや残された家族のことや朔美とフクシン、康太と仁美、それぞれの絡まり合いのすべてが丸く収まるとは思っていない。誰かを傷つけてしまう可能性もある。そもそも何がこんがらがっているのかもわからない。それでもこの思いつきを実践するため、自分から動き出したかった。
「スタンドは辞めちゃうの? コーヒーはもうおしまい?」
しばらく黙ってから朔美がつぶやく。そして康太が言葉を探す間もなく、笑い始めた。離れにもコーヒーを淹れる道具は一式そろっている。スタンドはできるだけ続けたい。そう返答しかけると、朔美が遮った。
「ううん、好きなようにして、というか、うちのほうも康太くんのほうも、別れた相手と何かしらのつながりがあることっていいのかもしれない、って思う、ちゃんと整理できてないけど、って、イベント、ほんとにする気? あの人、ゲイゴトだと本当に神経質になるよ」
朔美はまた短く笑う。それから少しさみしそうな表情を浮かべ、康太の手を取った。ありがとう。どちらともなく、声に出した。
夜はふけていく。康太は朔美と畳敷きの床に並んで座り込む。再会してから起こったことを振り返るように話していた。康太が感じたことと朔美からの視点にはずいぶんずれがあり、いちいち感情が揺さぶられる。それでもすべては過ぎ去ってしまった。前年の夏から話は始まり、今、この瞬間まで追いついた。
朔美が視線を逸らし、木戸のあたりを見つめる。しばらく黙ってから、見えてるよ、と静かに言う。それはピンキーなの? と康太は尋ねる。朔美はうなずく。涙が青白い頬を伝い、細い顎から無音で垂れた。再生してきた時間がわずかに戻ったかのようだった。
「やっぱり、気づいてないよ、北島くん。でも全然苦しそうじゃない、顔、ほんとははっきり見えないのに、ちゃんとそう思う」
いつからか朔美の耳の脇で髪が小さく跳ねている。
「ねえ、そのピンキーにも、小指、ないの?」
最後まで言い切れず、康太は声を震わせた。粒の大きな涙が続けざまにこぼれた。瞬間的であっても、咆哮するような叫びが胸の内に響いた。朔美が愛娘に対するのとは違う手つきで康太の肩に触れた。
「さようなら」
問いには対する答えはなかった。それはピンキーに、シェアハウスの幽霊に向けての言葉だった。二人は見えない何かに手を振った。
部屋の隅にくまのぬいぐるみが置いてある。康太は近づき、それをゆっくりと伏せる。そして朔美と向き合い、はじめて愛の言葉を告げた。
(おわり)
【シェアハウスの幽霊 各話一覧】
早川阿栗(はやかわあぐり)
新潟県上越市出身、東京都内在住。第105回文學界新人賞島田雅彦奨励賞受賞「東京キノコ」。また、別の筆名で県内の各種文学賞を受賞。