地域の歴史研究に新たな扉 文書資料室がリニューアル 新発見の小林虎三郎日記も 7月1日から公開 (新潟県長岡市)
新潟県長岡市では7月1日、「歴史文書館(れきしぶんしょかん)」がオープンした。同館は、長岡市の歴史に関する文書の保存や調査・研究などを行うことを目的としている。中心市街地の旧互文庫内にあった「文書資料室」が、2022年3月31日に閉館した長倉の旧サンライフ長岡の跡地へ移転したもの。諸室面積が、905平方メートルとなり、1階が閲覧・展示室や講座室、図書室などの利用者のための空間、2階と3階が収蔵エリアとなる。
中心市街地からは少し離れるものの、広い駐車場を完備する。また、立地は長岡市立中央図書館や長岡市民体育館に近く、徒歩でも30分程度で訪れることができる。周辺には、新潟大学付属幼稚園や、小学校、中学校と立ち並び、閑静な住宅街が続く。今後は、長岡市の文化活動の中心地としての発展も期待されている。オープンにあたっての開館記念講演会“長岡はなぜ「長岡」なのか”は、公開してから2,3日で満席となってしまったという。また、7月1日から29日にかけて、「虎三郎と弟・雄七郎」という常設展が行われ、ゆかりの史料が展示されている。いずれも、いままでの「文書資料室」時代にはなかった、新しい企画だ。
展示の目玉は、なんといっても、人材育成を貴ぶ故事「米百俵」で知られる長岡藩士・小林虎三郎(1828~1877)によって、最晩年に書かれた『伊香保日記』だろう。これまでも同名の日記が長岡市に寄贈されており、その存在は確認されていた。それは、小林が1877年8月24日に亡くなる直前、療養していた群馬県の伊香保温泉で執筆したもので、1996年に7月14~28日分の冊子が個人宅で見つかっていた。昨年、同名の日記で、従来のものに続く7月29日~8月7日の10日間分の記述があるものが、個人より寄贈された。今までの小林の書いたものと比較した結果、長岡市は小林の筆跡と判断し、これを本人によって書かれたもう一つの『伊香保日記』と認定した。なぜ、同じものが2つ残されていたのか。書かれた期間が違うのか、いろいろな面から仮説が立てられているものの、本当のところはよくわかっていない。ただ、今回の日記の発見により、亡くなる直前の小林の動向が更新されるなど、幕末明治の長岡を支えた重要人物の動向の一端が紐解けそうである。
日記には、小林とともに、長岡の維新三傑の一人として知られている三島億二郎が、見舞いに来た様子なども記されている。それによると、三島は、1877年7月31日に小林の元を訪れ、8月5日まで5泊している。三島が小林と、向山の玉兎庵にて食事をとる様子や、小林の弟・雄二郎と榛名山で遊ぶ様子など、伊香保での滞在を楽しんでいることが記されている。
よほどはしゃぎすぎたのだろうか、三島が帰った後に、小林の容態はそのまま悪化し、とうとう24日に、帰らぬ人となった。三島と小林が過ごすのは、事実上これが最後になったと思われる。日記では、年長の三島に対して、小林が「友人」「佳友」などと表現するなど、二人の親密さが伺える。「年上である三島に対して“友人”などという関係は珍しい。通常の記録史料にはみられない、生の声を知ることができるのは貴重」と田中洋史館長(50歳)は語る。
1877年の三島といえば、前年に、新潟県第十六大区長に任官し、また、女紅場を創設するなど、忙しい時期である。また鹿児島県では、この年2月から長期にわたって、西郷隆盛率いる不平士族が西南戦争を起こしている。慌ただしく世の中が変化していく動きの中で、友と過ごす貴重なひと時であったのだろうか。いずれにせよ、今後の小林や三島に関する研究に一石を投じることが期待される。
同文書館は、日曜日、月曜日、祝日、年末年始以外の午前9時から午後5時まで、市内、市外の郷土史研究者たちへ門戸を開放している。今後、長岡市周辺の歴史研究が大きく進展する。そんな予感と期待がある。
(文・撮影 湯本泰隆)