「戦争の記憶を次世代へと繋ぐ」長岡戦災資料館が開館20周年記念特別展を開催 アオーレ長岡で(新潟県長岡市)
新潟県常葉町在住の櫻井信子さんが、長岡空襲を体験したのは、高等女学校1年生の頃である。櫻井さんの母・綾子さんは、川に落ちた女性を助けに行った直後に、焼夷弾を受け、栃尾の病院で手術を受けたが、空襲の二日後、8月3日に病院で亡くなった。「優しくて、真っすぐな自慢の母でした」と、櫻井さんは語る。
また、新潟県長岡市表町在住の七里アイさんは、空襲当時20歳だった。当時1歳半だった娘の美智子ちゃんを負ぶって柿川に入っていたが、気づくと美智子ちゃんの声がしない。慌てて前に抱えたが、亡くなってしまっていた。顔や手足がひどくただれている状態だったという。「私は一緒に逃げたのに自分だけ助かって…自分の子を葬りました」と七里さんは証言している。
当時の凄惨な記憶を伝えるのは、語り部の残した文字記録だけではない。平潟神社の忠魂碑と、泣き崩れる様子の老婆の表情が描かれている絵は、空襲当時11歳だった木村保夫さんによって描かれた絵である。当時、新潟県長岡市袋町にあった木村さんの家は焼け残ったが、殿町の御母堂の実家家族は空襲の翌日も消息不明。3日夕刻ようやく平潟神社の忠魂碑の下で焼死体で発見された。木村さんの祖母、一緒に住んでいた嫁、5才と3才の男児2人とも衣服は燃え、炎天下で痛みがひどく、内臓が破れ出ていた。「かろうじて寄り添った4人の姿からそれと判断した」という。その日は遺体に焼アタン(トタン)を被せておいた。後日、遺族がリヤカーを引いて、遺体を引き取りに来たが、その時すでに、累々としていた遺体は軍隊の手で、忠魂碑の下に集められ、合同火葬が始まっていたという。「こんげんのこんなら、腕1本でもとっておくがらった(こんなことであれば、腕1本でもとっておけばよかった)」と、木村さんの年老いた母は叫んで泣いたという。
今から78年前の1945年8月1日午後10時30分、新潟県長岡市では、B29による激しい焼夷弾爆撃が始まった。空襲は、翌2日0時10分まで続き、1時間40分の間に、925トンものE46集束焼夷弾等が投下され、16万3,000発余りの焼夷爆弾や子弾が豪雨のように降りそそぎ、市街地の8割が焼け野原となり、当時の長岡市長を含む、1,488人の生命が、一瞬にして奪われてしまった。
新潟県長岡市にあるシティホールプラザアオーレ長岡では、7月1日から新潟県長岡市城内町にある長岡戦災資料館の開館20周年を記念して、特別展が開催されている。同戦災資料館は、2002年7月、長岡市立科学博物館が所蔵していた戦災資料等が、長岡市市民センターで一般公開されたことが契機となり、当時の市議会議員や市民有志の要望にこたえる形で、翌2003年に設立された。
今回の展示では、空襲関係の資料の他、20年間の出来事や、語り部・運営ボランティアなど、同資料館に関わりの深い人々をパネル展示で紹介している。会場内では語り部たちのインタビュー動画を大画面で流し、まさに文字、絵画、映像などのあらゆる情報で、空襲の恐怖、戦争の悲惨さを経験したことのない我々に伝えようとしている。
今回の展示の総括主査を務める長岡市職員の相羽麻衣さん(46歳)によれば、「多くの方に来場いただいている。20年というときを経て、一緒に活動された方が、懐かしいとわれ、思い出に振り返りながらご覧になられている」という。
受付をしていた田口孝(たか)さん(66歳)は、幼少期に、祖母から、「布団かぶって左近まで逃げた」などという空襲のときの体験談を聞いた。田口さんのお父さんは、長岡中学から予科練に入隊したという。戦争が終わり、「もう一度勉強したい」と思って長岡の街へ帰ってきたが、アタンを下ろした真っ暗い所に座っている母親と妹の様子を見て、勉学の道を諦めた。家族を支えるために、新潟市へ働きに出たという。「空襲のときだけではなく、空襲によって、その後の人生が狂わされた人たちが、父以外にもいたのではないか」と田口さんは思うようになったという。どうにかして戦争の恐ろしさについて、孫や子に伝えることができないかと考えていたときに、自然体で参加できる同館のボランティア活動に出会ったという。
「語り部さんたちは、自分の体験を、言葉で伝える難しさを感じている」と相羽さんはいう。例えば、「警戒警報」といって、今の子ども達に理解させることできるだろうか。戦後80年近く経過し、空襲のあった時代と現代では、あまりにも人々のライフスタイルが変化しすぎている。また、戦争の体験を伝えることができる世代自体が、減少しているという課題にも直面している。15人いた語り部も、現在は8人での活動となっている。失われていく戦争の恐ろしい記憶を風化させることなく、どの様にして次世代に伝えていくのか。課題は多い。
一方で、相羽さんは「子ども達は語り部さんの話を聞いて、自分たちが伝えていかないと感じているようだ」とも話す。
戦争の記憶を次の世代に伝え、平和の時代へと命を繋いでいくことは、今を生きる我々の世代や次世代を生きる子どもたちに課せられた責務である。
長岡戦災資料館は2025年に、現在借りている城内町の民間ビルから、坂之上町にある旧互尊文庫の建物に移転する予定である。同地は、長岡空襲の爆撃中心点である明治公園に接し、平和の森公園にも近い場所にある。今後、これらの景観を活かした、さらなる平和学習の場として発展することが、期待されている。
展示は、1階市民交流ホールAで、7月9日までの午前10時から午後4時(最終日は3時)までである。最終日の7月9日午前10時からは、山田文さんの語りによる「戦争空襲の体験を聞く会」が開かれる。