【終戦の日特集】翼よ!これが長岡の灯だ 里帰りした山本五十六搭乗機の左翼

現在、山本五十六記念館に展示してある山本搭乗機の左翼

南太平洋のブーゲンビル島上空で、山本五十六連合艦隊司令長官が搭乗した海軍一式陸上攻撃機が、アメリカ軍の戦闘機によって撃墜されたのは、1943年4月18日のことである。

当時、山本は、ブーゲンビル島・ショートランド島の前線航空基地で戦っている各将兵の労をねぎらうため、ラバウルからブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く予定を立てていた。同日早朝、ニューブリテン島ラバウルのラクナイ基地を飛び立った山本の搭乗機は、6機の護衛機に守られて、約500キロ離れたバラレ島基地を目指していた。

バラレ島までもう少しの地点のブーゲンビル島南端に来たとき、事前に情報をキャッチし、待ち構えていたアメリカ軍のロッキードP38戦闘機16機の一群との戦闘状態に突入。5分ほどの激戦の末、山本の搭乗機は狙撃された。

「山本長官機、狙撃さる」

護衛機から知らせを受けたブーゲンビル島駐屯陸軍部隊などが周辺を捜索、翌19日午後、山本の搭乗機残骸がジャングルのなかで発見され、全員の死が確認された。

山本の亡骸は、現地で荼毘に付され、遺骨は日本へと持ち帰られた。6月5日には国葬、7日に遺骨の一部が、郷里である新潟県長岡市に戻ると、改めて菩提寺である長興寺で葬儀が営まれた。

後に、「海軍甲事件」、アメリカ側では「ヴェンジェンス作戦」と呼ばれるこの一連の事件は、当時の日本人に大きな衝撃をもたらした。

一方で、山本の搭乗機は、主翼、胴体、尾翼部分に分かれて墜落現場の密林の中に埋もれた状態で、現地の人以外、長い間忘れられていたという。

現在、新潟県長岡市にある山本五十六記念館に展示されている山本の搭乗機左翼は、今から34年前、墜落地のブーゲンビル島から、長岡市の有志の人々によって、島から持ち出され、展示されているものである。

山本五十六殉難40年、生誕100周年の節目の年であった1984年、山本元帥景仰会役員会によって、1回目の山本元帥殉難地への巡拝団の派遣が決定された。当時の団長・金子恭一氏、幹事長・室賀輝男氏を筆頭に、10名でブーゲンビル島へ向かった。その目的は、過去実現していない山本五十六の現地慰霊祭の挙行と、山本搭乗機の一部を里帰りさせることが目的だった。

残念ながら、一回目では、山本搭乗機の一部の里帰りは実現しなかったが、帰朝後の巡拝団による報告会が行われると、長岡の人たちの山本搭乗機の一部を故郷を長岡へ里帰りさせたいという想いは一層高まり、「山本長官搭乗機里帰りプロジェクト」が始まった。以後、巡拝団は、1986年まで5回ほど派遣され、2回目の巡拝団の派遣では、山本家が代々使ったという長岡産釜沢石で造られ、当時の景仰会会長であった駒形十吉氏の筆による「山本元帥御終焉地」と刻まれた記念碑が、現地の山本搭乗機機首とされる位置に付近に取り付けられた。

このプロジェクトは、地元長岡の人々と、ブーゲンビル島の人々の信頼関係の上で実を結んだ完全な民間外交である。とはいえ、発足から30年以上が過ぎ、当時の様子を知る人たちも少なくなってしまった。最初期の段階からプロジェクトに参画し、ブーゲンビル政府に身柄を拘束された経験も持つ片桐一夫さんから、当時の様子を伺った。

「夢はまだ終わっていない」と左翼を前に語る片桐さん

2回目の巡拝団がブーゲンビル島の山本搭乗機付近に設置した記念碑のレプリカ

片桐さんは新潟県長岡市の生まれ。新潟大学や長岡技術大学で、長年技官の仕事をしていた。第37次南極地域観測隊では、ドーム基地越冬隊員の一人として参画している。片桐さんがこの“里帰りプロジェクト”に参画したのは、プロジェクトの立案者・駒形十吉氏や室賀輝男氏との知遇を得ていたことが大きいという。

片桐さんによると、ブーゲンビルから、戦争遺物を持ち運ぶことは、容易なことではなかった。現地では、戦争遺物を観光資源として利用しようという考えが強かったからである。山本搭乗機にしても、状況は同じであった。そのような中、現地から機体を持ちだすためには、機体のある密林を管理している村の政府、州政府、そして、国の政府3者による合意が必要だった。この3つの政府の許可を得るために、長岡の人たちは、文字通り東西奔走することとなる。

当初、片桐さんをはじめとする長岡の人たちは、現地の村長と仲良くなり、村長と村の人々の合意を得た時点で、機体の一部を長岡に持ち出そうと考えた。当時のブーゲンビル島は、度々政権が変わるなど、政治情勢が非常に不安定だった。一度、機体を港にまで持ち出してしまえば、中央政府もそこまで追及はしてこないだろう、という算段だったという。その際の現地における機体持ち出しの実行役が片桐さんだった。

無事に現地の村長と交流を深め、村の人たちの協力も得た片桐さんは、密林から持ち出した、山本搭乗機の左翼をブルーシートで包み、密林から持ち出す計画は見事に成功した。そして、密林と村の中間地点に、一時的に仮置きしていた。

ところが、その時点で政府の関係者が、中央政府に密告。もちろん、左翼は持ち出せず、「勝手に戦争遺物を国外に持ち出そうとした」ということで、片桐さんの身柄は拘束されてしまった。

「若かったんでしょうな。機体を長岡に迎えるために、皆必死だった」と、片桐さんは当時を振り返って語る。

結局片桐さんは、罰金200キーナ(当時のレートでおよそ1万2,000円)と1年間の再入国禁止の処分を受け、釈放された。

その後、州政府、中央政府を交えた何度かの交渉の末、ようやく山本搭乗機の左翼を長岡へ持ち運ぶ許可を得た。名目はあくまで、貸出。現在も、ブーゲンビル政府と、数年毎に、借り受けの契約更新をしている。

「夢はまだ終わっていない」と、片桐さんは語る。2回目の巡拝団が現地に設置した記念碑が、設置からしばらくした後、紛失したという。幸いなことに、記念碑は当初から2つ造られ、1つは現地の役人が大切に秘蔵しているという。目下のところ、その石碑の場所を訪ね、再び終焉の地に石碑を設置すること、そのことが、片桐さんの現在の目標である。

2023年は、山本五十六の没後80年にあたる。

節目の年でもあるこの機会に、山本五十六は、世界にとって、日本にとって、そして長岡人にとって、どのような存在だったのか。もう一度生誕の地で、じっくり考えてみたいのである。

新潟県長岡市互服町にある山本五十六記念館

取材協力

片桐一夫さん
樋口栄治さん
山本五十六記念館

 

(文・撮影 湯本泰隆)

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