【中越地震から19年目】大切なことは「伝え続けていくこと」と「備えること」 長岡市民は今…(新潟県長岡市)

多くの長岡市民が祈りを捧げた

2004年10月23日午後5時56分頃に発生した中越地震は、最大震度7を観測し、68人の尊い命が奪われた。新潟県長岡市のアオーレ長岡では19年目にあたる2023年のこの日、献花台が設置され、多くの市民が祈りを捧げていた。

アオーレ長岡に設置された献花台

新潟県長岡市在住の会社員・松田清美さん(49歳)は、地震が来るたびに中越地震のことを思い出すという。震災当時、長岡市内で専業主婦をしていたという松田さんは、地震の瞬間、急に起こった揺れに恐怖を感じ、思わず外に出たという。当時は夫と息子の3人暮らし。当時中学生だった松田さんの息子は、未だに地震の揺れが来ると起き上がる。一度は窓ガラスを割って出て行ったこともあったという。

「未だに当時を思い出す」と語る松田清美さん

同じく、長岡市在住で震災当時4歳か5歳位だったという吉田薫さん(24歳)は、父親と市内の図書館に行こうとしていたという。地震発生直後のことは、ほとんど覚えていないが、「揺れが来て、怖かったと思う」と、当時を振り返る。震災から19年経ち、「意外と時間が経つのは早い。特にここ数年は地震のことを思い出すこともあまりなく過ごしてきた」と振り返る。

10月23日、見附市在住で、アオーレ長岡の献花台の設置を担当していた長岡市地域振興戦略部主査の関佑一郎さん(38歳)は、震災当時は大学一年生で、北海道にいた。テレビを見て地震の被害に騒然とし、直ぐに電話で家族の無事を確認したという。

家族が震災を経験した関佑一郎さん。今は長岡市職員として、地域のために奉職している

また、長岡市与板町在住の70歳男性は震災当時、ひとり自宅で仕事をしていたという。地震発生直後、強い揺れを感じ、恐怖を覚えた。幸い自宅の倒壊はなかったものの、ちょうど自宅が信濃川と黒川の境界に位置するところにあり、堤防が切れそうで危なかったという。
「身内が心配になって電話したが、全員無事だった」と、ほっと胸を撫で下ろした経験を語った。「地震は自然災害だから、いつ来るかわからない。また同じような揺れがくるのが怖い」と、恐怖を語る。

服部耕一長岡市議(54歳)も当時の様子を思い出し、応えてくれた。19年前の震災の日は、ちょうど土曜日だった。翌日は日曜日ということにあり、両親が奥只見に遊びに行くことになっていた。当時の服部市議は、その運転手をすることになっていたが、そこへ地震が発生。当時町内会長をしていたという服部市議の父親は、近所の法事のため不在だったが、自宅にいた母親と妹と一緒に、慌てて外に出て、隣の家の畑に避難させてもらったという。「大きい揺れが3回。自宅に戻るのを辞めて、その日は、両親は父親の車の中で、自分と妹は、自分の車の中で一夜を過ごした」という。ドライブの計画は、当然取りやめ。「個人としてはもちろん、国や自治体としても今後も避難所の設置や耐震などの対策が必要。地震のある国には原発はいらない」と、力強く語る。

献花台に祈りを捧げに来た服部 耕一さん。「原発はいらない」と力強く

一方、献花台の制作を担当していた長岡市内在住の蝋燭作家ババカズキさん(41歳)にとって、10月23日という日は、結婚記念日でもある。19年前、ババさんは都内の大学に通う学生だった。震災当日は、たまたま家族と一緒に新潟市で過ごしていたが、一人っ子だったババさんは、両親と無事過ごすことができたという。「色々な悲しいことも、たくさんあったが、蓋を開けてみると、色々な考え方が変わるきっかけとなった地震だった」と、当時を振り返る。そして、7年前のこの日、ババさん夫婦は結ばれた。「この日は‟前を向く日“。19年経つと変わっていくものもあると思うが、僕にとっては、変わらない家族の大切さを確かめられる大事な日」と、語った。

蝋燭に火をともすババカズキさん

「10月23日は、“家族の大切さを確かめられる日”だ」と語るババさん

会場には、長橋和可奈さん、田中彩貴さん、丸山未央さんの姿も見られた。3人は一緒に来場し、献花台に手を合わせていった。

震災当時、3人はまだ小学生だったという。川口に住んでいた田中さんは、地震発生時「あまりにも揺れが大きすぎて、初めは“地震”という感覚がなかった。どこかからミサイルが落ちてきた。そんな風に感じた」という。丸山さんは、自宅でちょうど姉と一緒にテレビをみていたという。揺れがくる少し前に、突然テレビの電源が切れ、停電になった。揺れが来て慌てて、学校で習った通りに自宅のこたつに身を隠した直後、テレビが台から落ちる音が聞こえた。「そのまま部屋にいたら、テレビが当たっていたかもしれない」と、当時の恐怖が蘇る。長橋さんも、未だに地震アラートが鳴と、当時の恐怖を思い出すという。

「(震災の経験を通して、)生きていることは当たり前ではない。今を大切に生きていこうと思った。防災の仕事をしていると、考えるのは子どもたちのこと。震災当時の年齢のときと同じ年代の子どもを抱えている仲間もいる。今度は、親の立場になって、どうやったら子どもたちを守ることができるか。少しでも日常の中で防災を考えられるようにしたい。今の20代の人の中には、震災当時のことを知らない人たちもいる。そういった若い人たちにも防災の大切さを伝えていきたい」と、3人は語った。

震災当時は小学生だったという長橋和可奈さん、田中彩貴さん、丸山未央さん。震災の記憶は徐々に「過去のもの」となりつつあるのだろうか・・・

また、献花台に祈りを捧げていた磯田達伸長岡市長は、「これから、山古志、川口へと向かう。被災した地域では19年経って人口減少が進む中、懸命に街を復興させ、震災当時の様子を伝えていこうと、尽力されている方々もいる。20年目を迎え、地元の皆さんと新しい地域づくりを、一緒に考えていきたい」とコメントした。

献花台に祈りの捧げる磯田達伸長岡市長(右)と加藤尚登市議会議長(左)

山古志・川口地域へ向かう直前に弊紙記者の取材に対応する磯田市長

揺れの発生した午後5時56分には、1分間の黙とうが捧げられ、様々な人の祈りと想いが、交錯した1日となった。

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