【ビズテイル#5】―リーダーの光と影―「もうお終いかも・・・」県外依存が仇となりコロナで窮地に、とき司法書士法人(新潟市東区)の川嵜一夫(かわさきかずお)代表<再掲載>
掲載日: 2023年11月25日(更新日: 2023年12月24日)
人気記事を日曜日に再掲載いたします(編集部)
新潟のビジネス界を牽引するリーダーたちの困難の経験に迫る「ビズテイル ―リーダーの光と影―」。第5回は、とき司法書士法人(新潟市東区)の川嵜一夫(かわさきかずお)代表司法書士。長年の努力が実り司法書士として独立するも、開業7年目に訪れた最大のピンチとは。
──川嵜さんが代表を務められている「とき司法書士法人」でのご業務について教えてください
司法書士の仕事はいろいろあるんですけど、うちでは相続手続きや後見、遺言、そして家族信託といった分野に力を入れています。
例えば、認知症になっちゃって自分で銀行の引き出しが難しい人の代わりに金銭管理をするなど。そういうサポートをするのが成年後見の仕事で、メインにやっている事です。
あとは遺言書の作成もお手伝いしています。昨日は、お客さんから余命一ヵ月だと言われ急きょ遺言を作成しました。余命一ヵ月って、場合によっては数日で亡くなる事もあるんです。
こういう急なケースもありますが、大体はお客さんが元気なうちにじっくりと準備しますね。
──司法書士というと不動産取引に関する手続きをイメージしますが
そう、不動産取引は司法書士の一番ポピュラーな仕事です。けれど私自身は不動産取引を業務の柱とはしていないんです。
東京や大阪では不動産屋さんの指示で動かされることも多いと聞きますし、そういう状況になるとプライドを持って仕事ができなくなるんですよね。だから、もっと対等な関係でお客さんと仕事ができる「相続」や「後見」の分野にシフトしたんです。
この分野でお客さんをサポートするのが、自分のやりたい仕事だと思ってます。
──お客様との関係性についてどう考えていますか?
お客さんとは長く深い関係を築きたいと常に思っています。一度きりのお付き合いではなく、何度もご相談いただける関係が理想です。
感謝の言葉をいただけると、私自身ももっと頑張ろうと思えるんです。
キャリアチェンジから司法書士へ
──川嵜さんの経歴を教えてください
最初は大学で土木工学を学んだ後、東京の会社に就職して、プログラムやデータベースを扱うエンジニアとして働いていました。その頃は1996年。Windows95が出たばかりで、ITの波が来るのを肌で感じてました。
ですが、家の事情で新潟に戻ることになり、東京での仕事を辞めなければならなくなりました。それが33歳のときでした。
当時の新潟はエンジニアの仕事は少なくて、それまでと同じ仕事は見つからずに、「どうしようか」という状況になりました。
──そこからどうやって今の道に?
再就職できる気が全然しなかったので、「じゃあ資格取るか!」と思って本屋で資格の本をパラパラ眺めました。
最初のページには弁護士が載っていて、読んでみると、「2年間の実習研修が必要」と書いてあり、「無理!」となりました(笑)。当時結婚してましたし、そんなに待てないぞと。
そしたら「司法書士」ってのが目に飛び込んできて、「合格したらすぐ開業できます」と書いてあったので、「これだ!」と即決しました。
その後に、「ところで司法書士って何する人だっけ?」という感じでしたけど(笑)
──司法書士試験はスムーズに合格できたのですか?
いや、そうはいかなかったです。結局3年かかりました。最初の年は毎日1日に10時間勉強してたんですが、(合格ラインまで)1問足りなくて・・・。
次の年も知人の仕事の手伝いをしながら勉強しましたが、0.5点ほど足りませんでした。3年目の35歳のときに合格しました。もう、生きた心地がしなかったですよ。
──合格後はどのように進まれたんですか?
すぐに独立したわけではなく、長岡市にある司法書士事務所で修行させて貰いました。
その後に胎内市の事務所でさらに経験を積んだ後に、44歳(2013年)にやっと自分の事務所を開業しました。今年で10年目です。
開業7年目で事業存続の危機に直面
──これまでのお仕事で最も困難だったことはなんですか?
コロナによってピンチを迎えたことでした。
というのは、「家族信託」という高齢者のための財産管理の制度が10年前に出来たので、それを専門に打ち出していくことにしました。
当時はまだ新しい制度だったので、知っている人がほとんどいない状態だったんですよ。でも熱心に勉強をしていたら、その分野の第一人者が東京にいたんです。河合保弘先生という方で、何度も通って勉強会などに参加していました。
──東京の人とのつながりが太くなっていったのですね
そうなんです。やはり東京は情報が早いもので、東京での仕事が出始めました。そのつながりで、大阪、福岡、札幌などと、大都市の仕事の話を受けるようになっていったんです。
当時は本当にたくさん出張をしていました。新潟にいる方が少ないくらいでした。そのような形で事務所経営が回っていたのですが、そこでコロナが来ました。
もう分かりますよね?
──県外出張が出来なくなった・・・
はい。県外に行くことができなくなって、一気に仕事が減りました。売上のかなりの部分が県外に頼っている状態でした。売上でいうと約40パーセント減。
やはりこの仕事は現地に行かないと話にならないんです。オンラインでは厳しいものがありました。
──その時はどのような心境でしたか?
「もうお終いかも・・・」と思いましたね。借金もしましたし。事務所が潰れると本気で思いましたから。
全然地元を重視していなかったということに気付きました。ちょっと(東京で)名前が売れちゃたものだから、生意気になって天狗になっていたんです。
仕事は一生懸命やっていたのですが、県外ばっかりいっていたので地元の人からの引き合いは多くなかったんです。
──どのように立て直したのですか?
やっぱり地元で頑張っていかなきゃダメだと反省しました。そこから全力で地元重視の事業展開に切り替えました。多少、、多少地元での繋がりがあったんです。その繋がりを一本一本太くしていこうと思って行動しました。
──具体的には何をされたのですか?
地域包括支援センターや介護の事業所の人にこまめに連絡を取っていきました。「後見」というのは認知症の人や身寄りがない人をサポートする仕事なので、福祉の現場の人から紹介を受ける可能性があると思ったからです。
すると一緒に勉強会に参加したりして交流をしているうちに、「後見や相続について話して欲しい」と頼まれることが増えてきたんです。その要望に頑張って答えていくうちに、徐々に仕事に繋がっていきました。
──経営が回復するまで、どれくらいかかりましたか?
3年はかかりましたね。1年目は全然ダメで、ただ種をまいている感じ。2年目もキツかったですけど、3年目になってようやくうまく回り始めたんです。
現在はおかげさまでいろいろな引き合いを頂いています。やっぱり地元ですね。地元で繋がりを持って一生懸命サービスを提供していくっていう事ですね。
地元で信頼を得ることの大切さ
──川嵜さんがお仕事をする上で大事にしていることを教えてください
「腹が痛くなることはしない」というのが僕のポリシーですね。
──それはどういう意味ですか?
お客さんへの提案で、「こっちの方が売上があがるよな・・・」というやり方があるわけですよ。でもね、それをやると腹が痛くなるじゃないですか。
もし僕がお客さんで、今の知識を持っていたら絶対にこっちを選ぶ・・要はうちにとって儲からないやり方を選ぶという場合は、絶対にそちらをお勧めします。
確かに売上だけ見れば儲かりません。でも、その方がお客さんにとってはいいわけですから、そっちの選択をします。それが結局はうちの評判を上げてくれるんです。
──お客さんの反応はどうですか?
お客さんは喜んでくれます。そして、これは僕の下心じゃないですけど、紹介してくれることもあるんです。
「あそこならちゃんとしたアドバイスをくれる」と信頼してもらえる。
だから、腹の痛くなる商売はしない。これが僕のやり方です。
(聞き手 中林憲司)
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【これまでのビズテイル】
#1 「積み上げたものがどんどん崩れていった・・・」人材派遣業DearStaffの深見啓輔(ふかみけいすけ)代表取締役 (2023年10月6日)
#2 「無給のため、地面のアリや雑草を食べていた……」バイオポリ上越(新潟県上越市)の武田豊樹(たけだとよき)代表取締役 (2023年10月23日)
#3 「女性経営者が5年連続全国最下位の街・新潟で」 トアイリンクス(新潟市中央区)の佐藤ユウキ代表取締役 (2023年11月11日)
#4 故郷で見た貧困と日本人技術者への憧れ、三条市立大学(新潟県三条市)アハメド シャハリアル学長(2023年11月21日)