【ビズテイル#4】―リーダーの光と影― 故郷で見た貧困と日本人技術者への憧れ、三条市立大学(新潟県三条市)アハメド シャハリアル学長(再掲載)
2023年の人気記事を再掲載します(編集部)
初回掲載:2023年11月21日
新潟のビジネス界を牽引するリーダーたちの困難の経験に迫る「ビズテイル」。第4回は、地場産業とのタッグで実学志向の教育を進める、三条市立大学(新潟県三条市)のアハメド シャハリアル学長。「成長期の感動はその後の人生に大きな影響を与える」と熱弁する背景には、故郷バングラデシュで経験した貧困と、そこで見た日本人エンジニアの姿があった。
戦後の混乱期に祖国で見た景色
──お生まれはバングラデシュと伺いました。
正確には、私が産まれた当時はまだ「東パキスタン」でした。幼少期に戦争(バングラデシュ独立戦争 1971年)を経験しましたが、そのあとが大変でしたね。私の父は発電所へ勤務していてまだ仕事がありましたが、周囲には職も失い、食料の配給も貰えない人たちがいました。
4歳か、5歳の時のことを今でも覚えています。その年は天候が悪く、洪水であらゆるものが流されていきました。そんなとき、食料不足に困った人々が私の家にやってきて、そっと容器を置いていくのです。米の洗い汁を貰うために。
そうした状況でしたから、この世の中を変えなければ、と自然と思うようになったのだと思います。
──ご家族がエンジニアだったのですね。
子どものころは父について行き発電所の仕事も見ていました。当時は今みたいにセキュリティーも厳重ではありませんでしたからね。父と一緒にコントロールルームに座って、発電所の起動の瞬間も目の当たりにしたこともありますが……あれは震えるほど感動しますよ。
その時、新しい発電所をつくるために若い日本人のエンジニアたちが来ていました。科学的根拠などありませんが、彼らの男気あふれる仕事ぶりに惚れたのです。彼らと、もちろん父の影響もあり、私もエンジニアに憧れるようになりました。
スーツケースだけ持って日本へ
──士官学校でのご経験もあるとお聞きしました。
士官学校へ入学し、その後大学へ進学しました。士官学校では、「世界を変えるのなら、まず自分が変わらないといけない」と毎日のように言われました。今でもそれを信じていますし、行動の指針になっています。
──日本への留学を決めたきっかけは何だったのですか?
80年代のバングラデシュは最貧国でした。大学に入学しても、情勢の不安定さもあって授業が始まらないのです。なのでみんな単位が取れず、交通渋滞のように留年する人が積み重なっていきます。「こんなところにいたら、いつ社会に出られるか分からない」そう思いましたね。
当時の日本は世界第2位の経済大国。まわりを見渡せば全部が日本製。幼少のころの感動もあるので、おのずと「日本で学びたい」という気持ちにも拍車がかかります。だから、日本語も話せない、日本のことなどほとんど何も知らないような状態で、スーツケースだけ持って日本へ来ました。
実績の積み重ねと人との出会い
──日本に来てからは、スムーズに大学へ行くことはできたのですか?
いいえ。日本に来てからはまずアルバイトをしながら日本語学校へ通い、それから拓殖大学の工学部電子工学科へ入りました。そこからは応用研究で、企業の方々とずっと関わってきました。博士課程では人工心臓の研究で、医療機器メーカーとずっと仕事をしていました。研究で少しずつ認められ、徐々に生活も安定させていった感じですね。
1998年、アメリカで開催された国際人工臓器学会で賞を獲得しましたが、それで(実力を)認められたのだと思います。その後、東京電機大学の新しい研究所(フロンティアR&Dセンター)の立ち上げに関わりました。医療系の開発人材を育成するのが目的で、そこには留学生も含んでいます。ここで学んで国へ帰って技術を広める。私も、バングラデシュへ帰るのだと想定されていました。
──しかし……バングラデシュには戻られなかった。
様々な出会いがありましたからね。新潟産業大学(新潟県柏崎市)に異動になったのです。当時の学長がバイオメディカル系の学部をつくるということで、先ほどの研究所立ち上げに関わった私が抜擢されました。それまで一度だけ、1日2日ほど滞在したことはありますが、新潟に住むのは初めてでした。
新潟産業大学で教鞭をとりながら地域に求められる人材育成についてを考えるなかで、テクノロジーは生み出すだけではなく、正しくマネジメント(経営)できて初めてその価値を発揮するのだということに気づきました。そのためMOT(技術経営)を学ぶために大学に入り直し、新潟有数の産業集積地である燕三条の企業や地域についても調査研究をしていました。
そんな活動を続けていたこともあって、のちに三条市が大学を構想する際、私へ声がかかったのです。
感動と出会いを学生にも
──三条市立大学のカリキュラムを見ると、企業へのインターンなど学生の経験や実体験も重視しているように感じます。
私がそうだったように、成長期の感動はその後の人生に大きな影響を与えると思いますし、その方向へ向かって邁進することは大切だと思います。しかし、そうした経験を「活かす」ことができるようになることも大事です。また、人生には様々な出会いがあります。そうした出会いを活かすためには、人との信頼関係を築く必要があります。私も三条市から声がかかったのは、出会いと信頼があったからです。
だから学生には、インターン先での感動と出会いを大切にしてほしいと思っています。「その時、その時」を大切にする、目の前にいる人を大切にする……。その延長線上に「何か」があるのです。自分だけ生きるというのは難しいことではありません。人へ良いインパクトを与えて生きることに努めなければいけないのです。
公立大学の学長になった外国人は日本にはまだ数えるほどしかいませんが、このような貴重な機会を三条市にいただいたことに、心から感謝をしています。三条市立大学の学生にもぜひ、難しいと思われることにも果敢にチャレンジして、世界を好転させられる人材として成長してほしいと願っています。
(聞き手 鈴木琢真)
【これまでのビズテイル】
#1 「積み上げたものがどんどん崩れていった・・・」人材派遣業DearStaffの深見啓輔(ふかみけいすけ)代表取締役 (2023年10月6日)
#2 「無給のため、地面のアリや雑草を食べていた……」バイオポリ上越(新潟県上越市)の武田豊樹(たけだとよき)代表取締役 (2023年10月23日)
#3 「女性経営者が5年連続全国最下位の街・新潟で」 トアイリンクス(新潟市中央区)の佐藤ユウキ代表取締役 (2023年11月11日)