【独自】長岡藩主も好んだ画題「雨龍」(あまりょう)とは!?(新潟県長岡市)
「雨龍」(あまりょう)と呼ばれる龍の種類がある。「ミズチ」ともいわれ、大形で、角がなく、尾は細く、全身青黄色で、雨を起すといわれている。
この雨龍を画題として好んで描いた長岡藩の殿様がいる。それは、長岡藩九代目藩主・牧野忠精である。1760年の生まれ。数え年7歳で、藩主となった。初めての長岡入りは20歳の頃というから、多感な時期を、江戸の恵まれた環境の中で、優秀なブレーン達に囲まれて育ったのだろう。『牧野家譜』には、1787年に、15歳で将軍職に就任した徳川家斉たっての希望により、17体の雨龍が献じられたと伝わる。
忠精は、京都所司代や老中職を務め、幕府の様々な要職を務めた。「長岡藩再中興の英主」とされた一方で、雨龍を多く画題として描いたことから、「雨龍の殿様」と親しまれた。
長岡市立科学博物館学芸係長の広井造さん(55歳)によれば、製作年が明らかになっているもので、一番古いのは「天明五(1785)年のもの」という。庄内藩主・酒井忠徳(ただのり)の求めに応じた描いたもので、『雨龍横巻十三態』と呼ばれる。現在は、長岡市立中央図書館の所蔵になっている。忠精の描いた雨龍は、威厳があるというよりは、どことなくコミカルで親しみがある。中には、お茶を立てたり、香を炊いたり、人間の様々な場面を描いたものもある。「江戸時代は、人物画を描くことが規制された時代。人々のいろいろな場面を雨龍に託して描いたのではないだろうか」と広井さんは解釈する。描いた忠精の年代によって、微妙に作風が異なるのも興味深い。
忠精は、自ら描いた雨龍の図を、身分の別を問わず、周囲の人々に配っている。広井さんによれば、現在残されている雨龍の絵だけでも、123点ほどである。由来が明らかなものは少ないが、1818年頃から新潟県の西蒲原地方の長岡藩領で行われた水抜き工事で功績があったものや、新田開発などの功績があった大庄屋などに、家老を通して下賜されたものが残されているという。
雨龍は、恵みの雨をもたらし、田畑の作物を潤わせる。その結果、豊かな収穫に繋がる。江戸時代の日本では、米の収穫量が富の象徴の一つだったことを考えれば、領民による生産や収穫を向上させる自発的な取り組みが雨龍に関連づけられ、それを喜んだ藩主によって絵を下賜されたとも考えることができるだろう。
2024年は、辰年にあたる。干支にちなんで雨龍の加護を受け、食料不足や大雨などの自然災害に悩まされない豊かな一年を送りたいものである。
(文・湯本泰隆)