【第9回-②】「信濃川を遡る古代朝鮮文化」くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 石塚正英(東京電機大学名誉教授)

前回はこちら→ 9-1. 信濃川を遡る古代朝鮮文化の足跡をたどる

 

9-2.信濃川を遡る古代朝鮮文化

繰り返しますが、私は、古代日韓交流史には、半島南岸・東岸から海流に乗って日本海を横切り、能登、佐渡、頸城地方へと通じる渡航ルートがあったと考えています。

例えば、考古学者で岡山理科大学教授の亀田修一氏は、論文「列島各地の渡来系文化」(吉村武彦・吉川真司・川尻秋生編『渡来系移住民―半島・大陸との往来』岩波書店、2020年)で、こう書いています。古代における畿内と関東・東北との交流は、東山道あるいは古東山道を経由して進められたが、「上野の国名が見えない理由は、この頃までに、ある程度開発できそうな地域が、すでに古く(五世紀頃)からの渡来人たちによって開発されていたからなのであろう」。

つまり、古東山道経由の交流以前に朝鮮半島と上野地域ダイレクトの交流、畿内を経由しない交通路があったことを想定しているわけです。

私も同感で、日本海沿岸の河川を遡上して関東地方に向かう列島内ルートを予測しているのです。朝鮮半島から北信濃一帯(半島→北陸沿岸→信濃・上野)への文化の伝播を促進したと思われる交通経路として、新潟市から遡る信濃川=千曲川、上越市から遡る関川、さらには糸魚川市から遡る姫川があります。そのうち、今回は信濃川遡上説を紹介しています。

2017年5月20日、高崎駅西口バス乗り場から9時50分発の路線バスに乗り、30分ほどで目的地の保渡田古墳群に着きました。上毛三山のパノラマ風景を満喫しながら歩くと、ほどなく保渡田古墳群最初の八幡塚古墳が目に飛び込んできました。この遺跡には、造営年代からいって、二子山古墳→八幡塚古墳→薬師塚古墳の3つ現存しています。

高崎駅で入手しておいた、かみつけの里博物館発行の案内書によると、以下のようです。

「5世紀末と6世紀前半、2度にわたる榛名山の火山災害に襲われた榛名山東南麓には、東日本でも有数の勢力を誇った王の本拠地がありました。(中略)技術を携えて朝鮮半島からやってきた渡来人のムラや墓など、当時の社会要素のほとんどが揃って発見されています」。

そのような情報を得て、ますます期待が膨らんできました。同地での調査は、朝鮮半島→コシ(信濃川河口→千曲川流域)→クルマ(群馬の古名)→コマ(埼玉県高麗地方)へと連結させたいわが古代朝鮮文化の信濃川遡上説に、暫定的な傍証を与える結果をもたらしたといえます。

八丁鎧塚

同古墳群に隣接するかみつけの里博物館で出土品を見学した時、サプライズが私をまち受けていました。館内を巡って驚いたのは、半島北部に関係するとほぼ断定できる「積石塚古墳」についての展示があったことです。館内で購入した「常設展示解説書」には、以下の記述があります。

「昭和六二年、高崎市箕郷町から奇妙な古墳が発掘された。谷ツ古墳である。(中略)墳丘は上下二段に仕上げられているが、下段は土を盛り上げ、上段は石だけで構築した『積石塚』である。積石塚は日本古来のものではなく、朝鮮半島北部がその源流だ」。

この記述に出遭ったことは、今回の古墳見学の最大の収穫でした。残念ながら、谷ツ古墳は埋め戻されています。しかし、ことは一挙に重大な局面を迎えることとなったのです。それは、以前から文献調査をしている長野県北部の大室古墳群と連動するからです。

北信濃の千曲川流域近くに残存する大室古墳群には、高句麗の墓制と共通の積石塚が複数確認されています。それで私は、保渡田古墳群調査の数日後、2017年5月26日、長野市と須坂市にまたがる積石塚古墳群に向いました。八丁鎧塚(写真:果樹園に隣接)と大室古墳群(写真:合掌形石室)です。

大室古墳群

26日早朝、さいたま市の自宅を出発し、大宮駅から新幹線に乗り、午前9時過ぎころ長野駅に着き、さらに長野電鉄の普通列車に乗り継ぎ、20分ほどで須坂駅に到着しました。ただちにタクシーで八丁鎧塚古墳群に向かいました。現場に着くや、丸石・川原石の小山というか楕円丘というか、ゴロゴロした黒山の積石塚古墳が目に飛び込んできました。古墳は2基に分かれていますが、その一つから鍍銀銅製獅噛文銙板(とぎんどうせいしかみもんかばん)3点が出土しています。

その後、こんどは長野市松代町にある大室古墳群に向かいました。千曲川の近くで、八丁鎧塚からタクシーで20分くらいのところにありました。ここの積石塚は形状が立派で、合掌形石室がいちだんと評価を高めています。長野市教育委員会編『国史跡 大室古墳群』(2007年3月)には以下の記述があります。

「大室古墳群は日本最大の積石塚古墳群として重要である。また、積石塚は高句麗の墓制と、特徴的な合掌形石室は百済の墓制との関係を指摘する意見もある」。

次(9-3)には、埼玉県の高句麗系民間渡来人の古代生活圏から話題を拾うことにします。いよいよ、越の国におけるプレ邪馬台国の仮想空間が登場します。まずは以下の拙稿で予習しておいて戴くと助かります。

「プレ邪馬台国の想定―小山顕治の天草・宇土説をヒントに」

 

(第9回-③に続く)

 

石塚正英

1949年生まれ。18歳まで頸城野に育まれ、74歳の今日まで武蔵野に生活する。現在、武蔵野と頸城野での二重生活をしている。一方で、東京電機大学理工学部で認知科学・情報学系の研究と教育に専念し、他方で、NPO法人頸城野郷土資料室を仲町6丁目の町家「大鋸町ますや」(実家)に設立して頸城文化の調査研究に専念している。60歳をすぎ、御殿山に資料室を新築するなどして、活動の拠点をふるさと頸城野におくに至っている。NPO活動では「ますや正英」と自称している。

 

【連載コラム くびき野の文化フィールドを歩む】
#8-1. 前曳きオガが高麗時代の半島にあった!

#7-1. 胸張る狛犬獅子像―朝鮮半島とくびき野の交差点

#6-1. 小野小町の死生観

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