【第9回-③】「プレ邪馬台国のごとき五十公野(いじみの、いぎみの)」くびき野の文化フィールドを歩む―1990年~2023年 石塚正英(東京電機大学名誉教授)
前回はこちら→ 9-2. 信濃川を遡る古代朝鮮文化
9-3. プレ邪馬台国のごとき五十公野(いじみの、いぎみの)
埼玉県日高市にある高麗神社境内に掲げられている由緒書には概略でこうあります。同神社は高句麗国の王族高麗王若光を祀る社です(写真)。私の所属校(東京電機大学理工学部)はその近く(鳩山町)にありますので、幾度か調査に出かけております。
8世紀前半に中央政府は高句麗遺民1799人を東国に移住させ、若光を高麗郡の国司に任命し統治させた。この記述は、もっとも重大な経緯を記し損ねているように、私には思われます。それはヤマト連合政権成立以前からこの地に前もって高句麗から移り住んでいたはずである移住民のことです。中央政府が高句麗遺民を東国に移住させた理由の一つは、かの地にまえもって高句麗系民間渡来人の生活圏が整っていたことです。そのような経緯はほかに多くあるでしょう。たとえば松本市の針塚(積石塚)古墳のケースにも妥当します。この地では、前もって積石塚墓を造った人々が5世紀初から住みついていて、そこへ668年の高句麗滅亡後、多数の遺民が同郷人の里を頼ってやってきたという理解が自然でしょう。
さて、国家間の公的交流とは限らない民間諸衆庶衆は、どのような動機で、いずこのルートを経由して裏日本列島へ渡ってきたか。その見通しを、森浩一に語ってもらいましょう(森浩一・岡本太郎・金達寿・司馬遼太郎「座談会 日本文化の源流に挑む」から)。
「積石塚というのは日本では長野県が一番多いんです。普通には長野県に積石塚を残したのは比較的新しい「帰化人」、つまり高句麗と百済の滅亡の前後に渡来したというんですけれども、辻褄が合わない。積石塚は高句麗では古い時期にしかないんです。それに高句麗や百済の滅亡のころには向こうも土塚なんです。そうするとおそらく日本海航路で来ておったと思うんです。(中略)信濃あたりに朝鮮的集団が入ってくるのは、高句麗や百済の滅亡の時期よりももう百年も二百年も前に入っていたと思われます。その一派が関東にどんどん入ってくるんですね。そこで関東地方におびただしい後期古墳を残している。後期古墳の立派な馬具とか環頭太刀とかは関東が圧倒的ですからね」。
くりかえすようですが、古代日韓交流時代には、半島南岸・東岸から海流に乗って日本海を横切り、能登、佐渡、越後地方へと沿岸の港や汀を結ぶ渡航ルート(汀線航路)があった、と私は考えています。さらには、現在の新潟市に河口を有する信濃川や上越市に河口を有する関川をはじめとする越後沿岸の河川を遡上して関東地方に向かう列島横断峠越えルートを予測しています。移動は政治的な征服・併合よりも生活上の交流・移住が目的だったでしょう。渡航ルートの先には汀を経由する汀線航路と、舟を曳いて河川を遡上する曳舟航路が開拓されたでしょう。
中央権力ヤマトに恭順の意を表し東国遠征軍に組み込まれた蝦夷や渡来人と、そうやすやすとはヤマトに下らなかった〔まつろわぬ民〕たる蝦夷や渡来人との交戦・鎮圧のシナリオには、そうやすやすとはだまされない。なぜならば、中央権力ヤマトそれ自体を構築したものこそ、高句麗などから渡来した知識(人)や技術(者)だったからです。
2004年10月にフィールド調査で研究仲間の門田春雄さんと共に飛鳥の地を巡り、伝統的とはいえ一地方の文化に接していっそう強く思ったことがあります。それは飛鳥時代、かの地では渡来系人脈と渡来系文化が9割以上を占めて主流をなしていたことです。彼らはヤマトに帰化したのではない。ヤマト連合政権に帰順したのでもない。彼らこそ実質的にヤマト連合政権を樹立しヤマトの文物制度を創出したのです。
以上の自説を傍証する史料として筑前国風土記逸文「怡土(ゐと)の郡」があります。以下に引用します。
「昔、穴戸の豊浦の宮で天下を治められた足仲彦の天皇(仲哀)が、球磨の国と噌唹の国とを征伐しようとお思いになられて、筑紫に行幸なさった時に、怡土の県主らの祖先である五十跡手が(中略)出向きお迎えして、二本の榊を献上した。天皇は自ら『あ、お前は誰か』とお尋ねになられた。五十跡手は『朝鮮の意呂山に天降って来た天の日桙の子孫である五十跡手である』とお応えした」(『風土記』小学館、541頁)。
この際、旧字の読仮名「怡土(ゐと)」あるいは「五十(ゐそ、ゐと)」に注目して下さい。邪馬台国の時代、「ゐ」で知られる人々は朝鮮半島と深いかかわりを有していました。同じ読み仮名は、ヤマトの頸城進出時コシ(越)に先住していた「ゐぎみ(五十公、五十君)」と称する在地諸衆にも妥当します。かつてコシの沼垂郡や頸城郡に存在し後世に「五十公野(いじみの、いぎみの)」と称された地域は「ゐぎみ」の残照でしょう。紀元前後の日本海沿岸の汀線航路一帯には、いわば「プレ邪馬台国」(拙稿「プレ邪馬台国の想定」参照)が点在、散在していたのではないでしょうか。
次回は上越地方を流れる関川を遡る古代朝鮮文化の足跡をたどることにします。(第10回に続く)
1949年生まれ。18歳まで頸城野に育まれ、74歳の今日まで武蔵野に生活する。現在、武蔵野と頸城野での二重生活をしている。一方で、東京電機大学理工学部で認知科学・情報学系の研究と教育に専念し、他方で、NPO法人頸城野郷土資料室を仲町6丁目の町家「大鋸町ますや」(実家)に設立して頸城文化の調査研究に専念している。60歳をすぎ、御殿山に資料室を新築するなどして、活動の拠点をふるさと頸城野におくに至っている。NPO活動では「ますや正英」と自称している。
【連載コラム くびき野の文化フィールドを歩む】
#8-1. 前曳きオガが高麗時代の半島にあった!