【コラム】「ジープ島物語」ここには都会にある物は全てなく、都会にない物が全てある 第2回「南方への憧れ」ジープ島開島者吉田宏司(新潟県上越市在住)
私は高校卒業後上京し、東京の荻窪に住んだ。6畳一間のアパートで、その当時は家賃1万5,000円くらいだったと思われる。食事は近くの食堂で食べ、風呂は銭湯に通っていた。まだ浪人の身で、日中散歩することが多く、2駅先に吉祥寺があり、よく井の頭公園を散歩していた。公園はたいへん小ぢんまりとしていて中央に大きな池があり、その周りをたくさんの木々が囲み、弁天様があった。そして、池の真ん中に橋があり、その橋を渡ると右側に「水生物園」があった。
水生物園には、ハクチョウやペンギンなどの水鳥たちがたくさんいて、その奥には小さな水生物館(水族館)があった。歩いて10分くらいで周れてしまう、おそらく日本で最も小さな水族館だと思われる。そこが私にとって一番のお気に入りだった。まず入り口から入ると、ゲンゴロウやメダカ、タニシなどから始まり、ハヤ、フナ、ドジョウ、コイ、ザリガニ、カメ、タナゴがいた。そして、一番大きなものがサンショウウオだった。これらは、すべて小学4年生の夏休みに田舎で見たものばかりだったので、幼き頃を大いに懐かしむことができる場所であった。
そして、その水生物園を上がると動物園があり、象、ラクダ、猿、ラマなどがいて、これもまたさほど種類の多くない小さな動物園なのだが、そのほぼ中央に「熱帯鳥温室」があり、2階建ての建物の中は、南国をイメージしてジャングルになっているものだった。
椰子の木々などが生い茂り、様々な観葉植物のジャングルの中に、赤、青、黄色と南の色鮮やかな鳥たちが放し飼いになっていた。そして2階のバルコニーには、当時小さな喫茶店があり、そこで椅子に座ってアイスコーヒーを飲みながらハイライトを吸って、ジャングルを見下ろしているのが実に楽しかった。
たまに、スプリンクラーで人工のスコールを降らせていたりもした。そのスコールが止んだ後、緑の大きな葉から落ちる雨露を見ながら、ゆっくり目を閉じて耳を澄ますと、小学生の頃TVで観たターザンの声が遠くから聞こえてくるような錯覚を覚えた。
その当時はまだ学生で、海外に出かけたこともなく、アフリカもミクロネシアもメラネシアもポリネシアも全く区別がつかず、全てが一緒くたになった状態、つまり一言で「南方」というイメージだけが心に焼きついていた。
うっそうとしたジャングルを眺めながら、鳥たちの甲高い鳴き声を聞いていると、いつしか私の心の中に眠っていた原始の感性が呼び起こされ、必ずや南国に一度は行ってみたい!という衝動に駆られたものだった。
吉田宏司
随筆家、海洋研究家、ジープ島を運営する代表者。1956年新潟県上越市生まれ。青山学院大学卒業後、ダイビングクラブを主宰しながら、約15年にわたり、ダイバーを世界中に案内し、自身も世界中の海に潜る。
1997年、40歳の時に少年時代からの夢だった「無人島を開拓して、ゲストに大自然を感じてもらう宿泊施設を建てる」と一大決心。1周275歩直径34mの無人島「ジープ島」に入島(グアムから飛行機で1時間半南下したミクロネシア連邦、トラック環礁に位置する島)。ダイナマイト漁で破壊されたサンゴの海を15年かけて再生させ、魚やイルカが集まる島へと成長させた。
シープ島は2009年に放送されたテレビ番組「世界の絶景100選」で第1位に選ばれたほか、2020年元旦放送のテレビ番組「なるほど!ザ・ワールドから新年あけまして!!奇跡の絶景スペシャル〜」に出演、雑誌「ブルータス」の表紙にもなるなど、新聞、テレビ、雑誌から多くの取材を受けている。また、世界海洋ボランティア協会の会長、海洋自然学校の創始者でもある。現在はジープ島にも行きつつ、妙高山を中心とした吉田自然塾を主宰している。
著書に「もしあなたが、いま、仕事に追われて少しだけ解放されたいと思うなら。」(KADOKAWA)、「South-ing JEEP ISLAND」(普遊舎)がある。