【文明論】第10回「活動絵画」<前編> 山賀博之(ガイナックス元代表取締役社長)

『蒼きウル』を象徴するシーンは雪景色。と最初期に決めた。空から雪が舞い降り、積もり、地上のディテールすべてを覆い隠す。無音になったその白い平面に佇んでいると、上昇と平等。理屈では相容れない二つの夢が一つの美しさに重なっているのを感じることがある。

映画が雪に始まり雪に終わる。物語の両縁に素朴な空白を置く。現在のアニメはデジタルで作業しているとはいえ、技法としては紙の平面に描いた絵で作る映画だ。雪の白は劇が演じられる場となる紙の白でもある。そのバーチャルな舞台への挨拶も込めている。

この空白へ最初に筆を落とすのは、我々の暮らす日常を詳細に写し取り、一つの異世界として描く作業。ここでもリアリズムが求めるのは決して情景描写や設定のリアルさではない。多くの人々が歴史的な時間を費し、欲望のままに天まで上昇しようと足掻く姿。

そこからリ・デザインされた日常は、一見、『スターウォーズ』や『三体』に出てくるような別の星に見えるだろう。だが、この異世界は「喫茶店の鏡の壁」であり、我々と同じ文明を共有している。観客にとって最も近所にある外国。もう一つの現実(疑似現実)となる。

前に、安達ヶ原は実は都にあるのではないか。と述べた。舞台が現代の都市ならば、「古典主義」の岩屋となる田舎大学のキャンパスは鬼婆の住処に相応しい。彼女は清まし顔の言語学者だ。(鬼婆が若くて美人なのは上昇の夢)呼称は仮に姫としておく。

キャンパスの目抜き通りを突っ切った一番奥、朽ちて廃墟のようになった建物には古代語の語彙カード分類棚があり、岩屋の姫はここで古代文明語事典を編んでいる。それは大学開設から現代に続く一大事業だが、130年かけて編纂できたのは全体の三分の一。

異世界の古代語は、こちらの世界のラテン語に当たり文明の骨である。古典はすべてこの言語で考えられ、討論され、書かれた。そして「文明の良心」は事典編纂の大きなテーマとなる。ここの言語学者は、我々と同じ平等の夢を見て同じ理想を共有している。

姫が生まれたのは、語彙カード分類棚を守ってきた家系。母も父も祖母も祖父もここで生まれ、同じ仕事をし、皆、ここで生涯を終えた。彼女もその気が遠くなるような歴史的事業を引き継いだが、自分の生きている間に事典が完成するとは思っていない。

しかもここは、異世界文明の中央からは遠く離れた辺境の地。そんな「古典主義」の研究施設があるなんて、専門家でも知る者は稀だろう。中央へのまなざしが強ければ強いほど「恨み」は黒く溜まってゆく。彼女は象牙の塔に゙囚われた「ゴシック」の姫なのだ。

辺境と中央という大命題を垂直軸に立てたことで、物語のミッションは確定したかのように見える。低くなっている平等の地位を上昇させることか。しかしこの到達点は、ストーリーが進行するに従いあやふやになり、物語は観客を不確定な浮遊状態へと導く。

人々が求めるのは、ひたすら上を目指す垂直のベクトルと、それとは次元の異なる区別のない平面、上昇が100%と平等が100%。この二律背反から生じるのがライブ感だ。定まらぬ自我とその目眩にも似た世界が起こす運動に、芸能の動的モデルが見えてくる。

人間の活動一般に通じるこのモデルの呼称を何とすべきか? ずいぶん迷ったが、「拙い子が懸命に励む姿」にした。子は拙いゆえに上昇を求める。懸命に励むエネルギーはあらゆる処に花を咲かせる。花はすべて平等であり、どの花を咲かせた子も上へは昇らない。

自然に対する人間の変わらぬ拙さは芸能の必須条件だ。世阿弥はこれを「初心」と記した。初めての舞台に立つ素人はもちろん。たとえ世界的なマエストロであっても、それぞれの階層にはそれぞれの「初心」があり、舞台からライブ感を出力する源泉となっている。

この、上昇と平等。対概念になることで複雑化する二つは人間の活動の指標であり、たとえば、私と公。戦と和。崇高と猥雑などとも言い換えることが可能だろう。何れも「誇り」へつながる言葉だと思う。この点でも、やはり芸能は文明の欠片なのである。

乱暴に言い切ってしまえば『蒼きウル』(面倒くさいのでもう普遍化しない)は、リアルな異世界に上昇と平等の浮遊状態を作れたらそれでOKだ。このアニメ映画に関するすべての活動は、たった一つのモデルの形に従って行えばそれで良い。他は何も要らない。

制作プロセス、スタッフの登用、劇中の設定、登場人物、ストーリー、映像、音… あらゆるレベルにおいてこのモデルに準拠する。出来上がった作品は、いつ、どこの劇場でもその客席にとって一度きりの本番に、豊かなライブ感を創出してくれるはずだ。

話を異世界の安達ケ原に戻そう。「拙い子が懸命に励む姿」のような所となると、見えるのは辺境に建つ摩天楼だろうか。例を二か所挙げれば、熱帯雨林にあるシンガポールと砂漠にあるドバイ。どちらも強烈な垂直感で溢れ、上昇のイメージとしては最適かもしれない。

だが、「拙い子」なのだから一見して伝わる、片田舎が頑張っている感。は必須である。外国から団体客が押し寄せるような立派な観光地ではなく、忘れられた地方都市。さらに「ゴシック」的な卑屈さも欲しい。そこで浮かんだのは、あの「駅裏」の薄暗い風景だった。

そう、この『文明論』の始めに描いた、ピンク色のベールと闇の境界によって切り落とされた断面こそが、物語全体に通底する舞台美術である。その断面を強調するために、産業と繁栄が不釣り合いに見えるシンガポールやドバイのような摩天楼を加えるのはありだ。

主要産業が観光でないとすると、あとは天然資源の産出だろう。中央の先進諸国との因縁の歴史で考えるとメランジ(『デューン 砂の惑星』の天然資源)じゃなく、みちのくに倣って金にしたい。その積み出し港が150年前に租界化されて急速に文明開化したのだ。

ゆえに、この土地には少数の渡来系支配層と貧しい地域住民という二極対立の図式が分かりやすく残っている。もちろん姫は地元民。しかしインテリ階級。という二律背反の設定はモデルの形に準拠。彼女の本性が鬼婆となるのもここに理由が求められる。

 

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山賀博之 (絵・岸田國昭)

山賀博之 (絵・岸田國昭)1962年新潟市生まれ。大阪芸術大学芸術学部を中退し、アニメーション制作の株式会社ガイナックスを設立。同社の代表作である『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(監督・脚本)や『新世紀エヴァンゲリオン』(プロデューサー)をはじめ、『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(サンライズ 脚本)、『ピアノの森』第2シリーズ(ガイナ 監督)など多くのアニメ作品に関わる。

現在、還暦。フリーライター。新作「蒼きウル」を鋭意制作中。自称「世界奢ってもらう選手権第一位」「大馬鹿者が好き」。

 

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